身体に障害を持っている狂人、「勝島義太郎」は毎日屋根の上にのぼり、雲を眺めていました。彼曰く、そこには金毘羅さんの天狗が住んでおり、天女と踊っていると言うのです。この義太郎の狂人的な性質に、「彼の父」は日頃から手を焼いていました。そこで彼は、近所の「藤作」が「よく祈祷が効く巫女」がいるという話をもちかけた事をきっかけに、早速その巫女に祈祷を依頼します。そして彼女が祈祷をはじめると、なんと神様が彼女の身体にのりうつり、「この家の長男には鷹の城山の狐が懸いておる。樹の枝に吊して置いて青松葉で燻べてやれ。」というお告げを彼らに残しました。そこで父らは気は進まないものの、神のお告げならばと義太郎に火の煙を近づけます。そんな中、義太郎の弟である「末次郎」がたまたま家に帰ってきました。彼は父から事の次第を聞くと憤慨し、松葉の火を踏み消してしまいます。そして事の発端である父を諭し、巫女をその場から追い払いました。その後、弟に救われた兄は何事もなかったかのように、屋根にのぼりはじめます。そんな兄を弟は労り、2人で同じ夕日を眺めるのでした。
この作品では、〈狂人であるあまり、かえって不狂人以上の信仰をもっている、ある男〉が描かれています。
この物語は義太郎の家族がそれぞれの意味で使っている、「神」という言葉を軸に話が進んでいます。ですから一度、各々が考えている言葉が指しているものはどういうものか、一度整理してみましょう。
まず兄の義太郎ですが、彼の考えている「神」とは雲の中の金毘羅さんの事を指しています。それは彼にとって絶対的なものであり、何をさしおいても優先すべき対象なのです。
一方、彼の父を含めた家族の「神」とは、彼以上に曖昧なものでした。その事は、巫女が自らお金を稼ぐため自らの祈祷によってつくりあげた、「偽りの神」にまんまと騙された事からも理解できます。また、彼らが祈祷によって騙されたという経験は、弟の「またこんなばかなことをするんですか」という台詞からも理解できるように、この一度だけではなさそうです。つまり、父たちにとって「神」の存在はどうでもよかったのです。ただ兄の狂人的な性質をなおしたいが為にすがっただけの、言わば手段のひとつでしかなかったのです。ですから彼らはその信仰心の無さから、これまでにも形は変えながらも人々がつくりあげてきた「偽りの神」に騙され続けてきたのです。
そして、こうした兄とその他の家族を傍にいながら冷静に比較している人物がいます。それが弟の末次郎その人です。というのも、彼は物語のラストで兄と夕日を眺めている際、「不狂人の悲哀」を感じています。これはどういうものなのでしょうか。その時の彼の頭の中には、理不尽に火を燻べられながらも、騒動が終わるとまたすぐに屋根にのぼった兄の姿が印象的に残っています。そこから彼は、巫女に騙さたとは言え常軌を逸した行動をとった父たちと、狂人とは言え自らの信仰心によって屋根にのぼっている兄、果たしてどちらが本当の意味で狂人なのだろうと考えていったのでしょう。ですがその一方で、そうした兄の不狂人以上の信仰心という一面を知った末次郎は、その時、兄との絆を同じ夕日を見ることでその絆を一層強いものにしてもいるのです。
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