2012年3月11日日曜日

屋上の狂人ー菊池寛

狂人であり自身の体に障害を持っている勝島義太郎は、毎日屋根の上に上がって雲を眺めていました。彼曰く、その中で金比羅さんの天狗が天女と踊っており、自分を呼んでいるというのです。こうした彼の様子に、父である義助は日頃から手を焼いていました。彼は息子の体には狐か、或いは猿が取り付いており、それが義太郎を騙しているのだと考えている様子。
そんなある時、彼らの家に近所の藤作が訪ねてきました。彼はよく祈祷が効く巫女さんが昨日から彼らの島に来ているので、一度見てもらってはどうかと義助に提案してきます。そこで彼は早速巫女に祈祷してもらうよう依頼します。そして、彼女が祈祷をはじめると、なんと神様が彼女の体に宿り、木の枝に吊しておいて青松葉で燻べろ、というお告げを義助らに残しました。そこで彼らは気はすすみませんでしたが、神様のお告げならばと、義太郎に松葉につけた火の煙を近づけます。そんな中、義太郎の弟である末次郎がたまたま家に帰って来ました。彼は父から一切を聞くと憤慨し、松葉についた火を踏み消しました。そしてその発端をつくった父に対して、兄は狐の憑依でこうなったのではなく、治らない病によって狂人になっていることを説明し、巫女を帰しました。こうして兄は弟に救われ、再び屋根の上に上がります。そして兄弟は互いをいたわりながら、夕日を眺めるのでした。

この作品では、〈長男の病気が治らないという事実を、自分たち為に自分たちの物語を付け加えて捉えなければならなかった父親と、当人の為にありの儘に捉えようとする次男〉が描かれています。

この作品で起こっている事件というものは、あらすじの通り勝島家の長男である義太郎の狂人的な性質を中心に起こっています。そして、その性質に対する登場人物の考え方というものは大きく分けて2つあり、彼らはこのどちらか一方を採用しています。ひとつは、義助達が主張しているひ非現実的な狐憑依説。もうひとつ、弟の末次郎の主張する現実的な病気説。では、これらの考え方には具体的にどのような違いがあるのでしょうか。
まず義助が採用している狐憑依説ですが、彼らは義太郎の狂人的な性質が治る事を信じたいが為にこの説を採用しています。というのも、義助の「お医者さまでも治らんけんにな。」の台詞から察するに、恐らく彼ら一家は以前に医者から、義太郎の病気は治らないと宣告されたのでしょう。ですが、父である義助をはじめとする家族らは、「阿呆なことをいうない。屋根へばかり上っとる息子を持った親になってみい。およしでも俺でも始終あいつのことを苦にしとんや。」という台詞からも理解できるように、狂人の息子を持ったという事実をどうしても受け止める事ができません。そこで彼らは、自分たちの為に、病気とは別のところに狂人的な性質の原因を求めはじめます。そして次第に、狐、或いは猿が取り憑いているという結論に至り、祈祷にすがるようになっていったのです。
では、一方の末次郎の考えはどうでしょうか。彼は兄の病気を病気として捉え、それと向き合っていこうとしています。そうした姿勢は、(義太郎)「末やあ! 金比羅さんにきいたら、あなな女子知らんいうとったぞ。」、(末次郎)「そうやろう、あなな巫女よりも兄さんの方に、神さんが乗り移っとんや。」という彼らのやりとりからも理解できます。また、彼は狐憑依説を唱えていた父達を喝破する際、次のように述べています。「それに今兄さんを治してあげて正気の人になったとしたらどんなもんやろ。(中略)なんでも正気にしたらええかと思って、苦し むために正気になるくらいばかなことはありません。」彼は、単純に正気に戻す事を考えるよりも、現在の当人の事を考えた上でも現状が一番ではないかとここでは述べているのです。

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