2012年3月19日月曜日

恩讐の彼方にー菊池寛

「市九郎」は主人である「三郎兵衛」の妾と非道の恋をした為に、主人の怒りをかい刀で斬りかかられます。ですが自身の命惜しさから、彼は脇差で主人を刺してしまいます。その後、彼は主人の妾であった「お弓」に従い、美人局(つつもたせ)、摂取強盗等を稼業として生計をたてはじめます。
そんなある時、市九郎は2人の夫婦をお弓の命によって手にかけてしまいます。この時、彼はこの夫婦を殺めてしまったことを後悔していましたが、お弓は彼とは対照的に、彼らが身につけていた櫛(くし)等の方が気になる様子。こうした彼女の浅ましさに嫌気がさし、市九郎はお弓のもとを離れることにします。
やがて、彼はこれまでの悪行を悔いるようになりはじめ、次第に真言の寺への得度を決意していきます。得度した彼は「了海」と呼ばれ、その後仏道修行に励んでいきます。そして、懺悔の心から人々を救いたいと考えていた市九郎は、やがて諸国雲水の旅出ます。その中で彼は、山の絶壁にある険しい道、「鎖渡し」という難所を渡ることとなります。そしてその難所を渡りきった時、彼は人々がここを渡らなくてもいいように、トンネルを掘ることを決心します。というのも、それこそが、彼にとって自身の大願を成就する為の難業でもあったのです。
穴を掘りはじめて19年、トンネルの完成も間近になった頃、彼のもとにある男がやってきました。それは市九郎が殺した主人、「三郎兵衛」の息子である「実之助」でした。彼は父を殺した人間はかつては父の下僕であったことを知ると、復讐を誓い、はるばる市九郎を追ってやってきたのです。彼と対峙した時、市九郎も実之助にその命を明け渡そうと考えていました。しかし、その時市九郎と共に働いていた石工の頭領が、20年に近い歳月を穴を掘ることに費やし、その完成を間近にして果てていくのは無念だろうから、トンネルの完成まで待ってはくれないかと、実之助に提案します。敵とはいいながらこの老僧の大誓願を遂げさしてやるのも、決して不快なことではないと考えた実之助は、この提案を受け入れることにします。こうして彼は市九郎の大願が成就する時を彼と共に待つにつれて、彼の内にある菩薩の心を目の当たりにし、やがては大願を果たした感動を共に分かち合うことなるのです。

この作品では、〈自分の目的の為に、穴を掘り続けた一人の男の姿〉が描かれています。

この作品はタイトルの通り、市九郎に対し復讐に燃えていた実之助が彼と触れ合うことでその怨みを忘れ、やがては市九郎の大願成就を共に喜びを分かつところを軸として描かれています。では、そうした実之助の心の変化を、彼の目的と市九郎のそれとを比較することで見ていきましょう。
まず市九郎の方ですが、彼は何もはじめから、人々を救いたいという目的をもっていたわけではありません。彼は、生きる為に主人を殺し、生きるために盗みを働き、生きる為に旅の夫婦を殺していました。そして、それらは自分の意思からではなく、「彼は、自分の意志で働くというよりも、女の意志によって働く傀儡のように立ち上ると」、「初めのほどは、女からの激しい教唆で、つい悪事を犯し始めていた」などの表現からも理解できるように、彼の行動の裏には、常にお弓の意思が働いていました。つまり彼は、「生きる為に(目的)、お弓に従い(主体)、盗みを働いていた、人を殺していた(手段)」(a)のです。
しかし、彼女に嫌気がさして自分のしてきた事に後悔を感じはじめると、彼は真言の寺に得度し、仏道修行に励みはじめます。すると、今度は懺悔の気持ちから、真言の「仏道に帰依し、衆生済度のために、身命を捨てて人々を救うと共に、汝自身を救うのが肝心」という教えに従い、難渋の人を見ると手を引き腰を押してその道中を助け、たま病に苦しむ老幼を負います。こうした彼の心の変化から、上記にある括弧の内容も自然と変わり、「懺悔の為に、仏道に従い、人々を救った」(b)となります。
ですが、彼はそうした人助けすらも、自分の犯してしまった罪の前では釣合いがとれないものと考え、より大きな苦難をさがしはじめます。その末、発見したものが鎖渡しの難所でした。この難所を発見した時、彼は早速自身の大願の為、穴をほりはじめます。そして、槌を振っている時の彼には人を殺した時の悔恨も、極楽に生まれようという欣求もありませんでした。そこには「晴々した精進の心」だけがありました。この彼の手段、及び心の変化から、括弧の中身は「人々を救う為に、自分に従い、穴を掘った」(c)となるでしょう。
さて、ここまでの市九郎の行動や心の変化を、更に括弧書きした箇所を中心に整理してしていきます。括弧の中身も分かりやすいように、矢印をつけてもう一度下に記しておきます。

「生きる為に、お弓に従い、盗みを働いていた、人を殺していた」(a)

「懺悔の為に、仏道に従い、人々を救った」(b)

「人々を救う為に、自分に従い、穴を掘った」(c)


次に、市九郎が具体的にどのようにして括弧の中身を変化させていったのかを見ていきましょう。まず(a)では、彼ははじめは確かに目的の為に主人を殺すという手段に至りました。ですが、美人局、強請、殺人とその行動がエスカレートするにつれて、彼の中でいつしか手段が目的よりもその意味を大きくしていったことが理解できます。またその行動の主体が、彼自身ではなく、お弓であった事も見逃してはなりません。ですが、こうして手段を優先していくにつれて、その目的を見失い、自分の行動に自信が持てなくなっていってしまいます。そして、彼はある夫婦を殺めたことをきっかけに、罪の意識を感じお弓のもとを離れていきます。
そしてお弓から離れた彼は、その罪をどうにかして悔い改めたいと考えはじめます。そこで彼は、宗教的な光明にすがり、その手段を模索しはじめます。やがて、彼は真言の教えに従い、人々を救うことが自身の懺悔につながる事を学びます。ここまでが(b)までの過程となります。また、(b)では(a)とは違い、市九郎は目的の為に手段を用いようとしています。ですが、この時点でもやはり、その主体は自分ではありませんでした。
しかし(c)、つまり穴を掘りはじめてからの彼は違いました。それは文中の、「人を殺した悔恨も、そこには無かった。極楽に生れようという、欣求もなかった。ただそこに、晴々した精進の心があるばかりであった。」という箇所からも理解できるように、穴を掘っている時の市九郎は、宗教的な教えのためにそうしているのではありません。彼は穴を掘り人々を救う行動をしている事に対して喜びを感じているのです。ここから、主体はいつしか仏道ではなく、自分そのものになっていったのでしょう。ですから、彼は作品の中で周囲の人々になかなか穴を掘ることに対して理解されず、また理解されたかと思えば再び彼のもとから離れていくこともありましたが、そうした人々の心の変化に一切動じず、ひたすら穴を掘ることが出来たのです。また、その目的も、「懺悔のため」という消極的だったものが、「人々の為」という積極的なものへと変化しています。これもまた、その主体が自分になったことからくる変化でしょう。こうして彼は、その主体を大きく変えていくことで、目的、手段を変えていき、自身の大願を成就させることが出来たのです。
では、一方の実之助の方はどうだったのでしょうか。彼は、「父の無念の為に、自分に従い、復讐する」ことを決意していました。ところが、彼は長年の穴掘りによって傷みきった市九郎の肉体を見た時、その復讐心が弱まってしまいます。そこで彼は、「しかしこの敵を打たざる限りは、多年の放浪を切り上げて、江戸へ帰るべきよすがはなかった。まして家名の再興などは、思いも及ばぬことであったのである。」と、復讐の目的を他のものに変えようとします。そうすることで、彼はどうにかして復讐を果たそうと考えたのです。こうした考えから、彼はその目的よりも、手段にこそその重きをおいていったことにより、その目的を見失ってしまいます。またこれは、はじめの市九郎の(a)の考えと同じ構造を持っています。そして、実之助もまた自分の行動に自信が持てなくなってしまいます。そして、そんな自分と懸命に人々の為に穴を掘る市九郎を比較した時、彼を斬る気にはどうしてもなれず、その復讐心を消し去り、やがては彼を支持するようになっていったのです。

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