2015年2月23日月曜日

唖娘スバーーラビンドラナート・タゴール(宮本百合子訳)(修正版)

 「スバー」はバニカンタの、3人娘の末の子としてこの世に生を受けましたが、生まれながらに唖でした。その為に、人々からはまるで感情がないように扱われ、母からは自身の不具のように忌み嫌われて育ってきたのです。その変わりにスバーは美しい容姿と感情豊かな心を持ち合わせていました。が、感情が豊かな故に、そうした人々や母の仕打ちに日々深く傷つけられていきます。
 そんな彼女にも幾らかの友人がいました。2頭の牝牛とプラタプという青年です。彼は怠け者(と言っても、インドの怠け者は日本のそれとは違い、仕事が休みの家に行き、客として相手を楽しませるという、職業的な側面も持ち合わせています。)で魚を捕る事が好きで、スバーはそれをいつも見守っていました。またプラタプにとっても、彼女の存在はそこにいるだけで彼の大きな手助けとなっていたのです。
 しかしそんなスバーも、時が経ちお嫁に行かなければいけない歳になってしまいます。両親は世間体から、この不具の娘をどうにかして嫁がせようと躍起になりました。そうして彼女はカルカッタの家へ嫁ぐこととなったのです。ですがスバーはお嫁に行きたいとはちっとも思っておらず、ただ嘆くばかりでした。そしてあれ程仲のよかったプラタプすらも、「それじゃあ、ス、お父さん達は到頭お婿さんを見つけて、お前はお嫁に行くのだね、私のことも、まるきり忘れて仕舞わないようにしてお呉れ!」と、スバーの心を分からず別れを告げてしまいます。
 ところが、そうして嫁いだ先にも、結局は彼女が唖だと分かると追いだして、花婿は再び、今度は口の利ける花嫁を貰うことにしたのでした。

 この作品では、〈言葉にならない言葉、声にならない声が、この世には「確か」に存在する〉ということが描かれています。

 私たちはどうして人の気持ちを読み違えたり、それを疑ったりするのでしょうか。それは「気持ち」というものが、物理的な形で存在しないからに他なりません。そしてそれだけに、言葉を話せない人々の「気持ち」というものはますます希薄になってしまいます。
 この作品に登場するスバーも、唖故に、「気持ち」という目には見えないものの存在を周りから認められなかった者の1人です。ですが彼女は本当に言葉を持ちあわせていなかったのではなく、寧ろあり余るほどの感性を持った少女だったのでした。
 ですが、この物語の悲劇というものは、それなのにスバーの気持ちを理解した者が1人もいなかったというところにあります。母も父も花婿も、一緒に釣りをした仲であったプラタプですらも、彼女の気持ちに気付かず、快く彼女を見送ってしまいます。
 しかしそれを知り得る唯一の人物が世界の何処かにいるとすれば、それはこの作品を読んだ私たちに他なりません。無論、だからと言って、物語のスバーに直接何かしてあげる事は出来ないのです。ですが、こうした「言葉にならない言葉、声にならない声」の存在に耳を傾ける事が出来ます。ましてや日本人たる私たちは、他の国々の人々よりもそうした事にただでさえ敏感でなければなりません。夫が妻に「愛してる」と生涯言わなかったからと言って、妻の事を果たして想ってはいなかったのでしょうか。息子が親に「有難う」と言わなかったからと言って、年老いていく親の身を案じていないことになるのでしょうか。
 文学というものは、人々の心の特殊的なあり方や内面の変化を文章によって表しています。そしてそうして綴られた言葉のひとつひとつが、理解され難い人々の気持ちを理解する、大きな手立てとなってゆかねばなりません。
 ですからスバーの存在を物語によって描くということは、そうした知られなかった彼女の悲しみを人々に知らしめる事でもあり、そしてそれは作家にとっての大きな使命でもあるのです。

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