2015年2月14日土曜日

短命長命ー黒島伝治

 著者は自分の故郷たる小豆島にある、「生田春月」の詩碑に、ふと行ってみたくなりました。
 彼は自身の道の先人たる春月や「芥川龍之介」らの存在を大きく思う一方で、現在の自分の年よりよりも低い年齢で、自らこの世を去ったことに対し、奇妙な感覚を覚えます。
 彼の見解では、作家に問わず、あらゆるジャンルにおいて短い期間で完成していく者、また長い期間をかけて熟成し出来上がっていく者がいるのではないかと考えているのです。そして春月らのような、短期間で完成した者達にとって、自ら命を絶つ事には何かしらの意義があるのではないかとも考えています。
 しかしその一方で、著者の知り合いと思われる女の、「この世がいやになるというようなことは、どんなに名のある人だったかは知らぬが、あさはかな人間のすることだ」という見解にも共感しているのです。一体彼は、何故相反する2つの意見に耳を傾けているのでしょうか。

 この作品では、〈先人の自殺を作家としては尊敬しながらも、人間としては尊敬できない、著者の素朴な感性〉が描かれています。

 生田春月や芥川龍之介らの事の年齢を通過していながらも、彼らの存在を大きく感じているところから察するに、恐らく著者は、彼らの自殺は、作家として自分が未だ嘗て体験したことのない感覚、境地に至った故のことと考えているのでしょう。ですからその死は、後世の作家にとって、何か意義があることのように捉えるべきだと考えているのでしょう。ですから彼らの死自体においても、作家としては、肯定的です。
 ところが人間としてはどうでしょうか。それは否です。ここで断っておきたいのですが、残念ながら死に関して、このエッセイでは市井を生きるものとして、どのように捉えるかは明言されておらず、またお恥ずかしい話ですが、私自身にもこれを論じられる実力がありません。ただ著者が女の、「この世がいやになるというようなことは、どんなに名のある人だったかは知らぬが、あさはかな人間のすることだ」という意見に賛同を覚えたのは確かです。ですから彼は市井を生きる者として、女のこの素朴な感性にこそ共感を覚えたのではないかと考えています。
 どうやら作家という限られた職業の中では、先人の死が尊く思われるからと言って、1個の人間としてそのあり方が正しいのか否かは別の問題のようです。

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