ある時、山男は山鳥を捕らえた事に気を良くして、ぐったり首を垂れた獲物をぶらぶら振り回して森から出ていきました。そして日当たりのいい枯れ芝まで出てくると、獲物を投げ出してごろりと寝っ転がり、雲を眺めはじめます。すると、なんだか彼の足と頭は急に軽くなり、いつの間にか木こりの姿に化けて、町へ出かけていました。
町へと来た彼は、そこで「陳」という薬売りに出会い、「六神丸」と呼ばれる薬を売りつけられます。山男も彼を怪しいとは思い、「よろしい」と大きな声でいいました。ところがその声があまりにも大きかったので人々の衆目を浴びてしまいます。慌てて山男は六神丸を買うことにしました。ですが、陳は買わずともただ呑んでくれさえすれば良いというのです。そこで山男は薬を呑んでしまうのですが、それを呑んだ途端、彼の身体はみるみる小さくなっていきました。そうして小さくなった彼は、陳に捕まり、薬箱の中へ入れられてしまったのです。
「やられた畜生」と思うも後の祭り。彼は誰かに売られて誰かの口に入るのを待つばかりなのですから。ですから山男はどうにかして、その信じられない事実を受け止めようとします。そんな事を彼が考えていると、何者かが、「おまえさんはどこから来なすったね。」と尋ねてきました。山男は「俺は魚屋の前から来た。」と応えます。
すると陳は「声あまり高い。」と言って注意しました。しかしこれに気を悪くした山男は、再び大きな声で陳を怒鳴ります。すると陳は暫く黙った後に、そんなに騒がれると商売が成り立たず、生活できなくなってしまうと嘆きました。この姿に山男は同情し、彼にもう騒がない事を約束します。
そして陳が歩き出したらしい事を確認すると、彼は再び声の主を探しはじめます。声の主は矢張り六神丸を呑まされた、支那人でした。支那人は薬箱にある黒い丸薬を呑めば、元の姿に戻れる事を山男に教えました。支那人達は既に身体まで六神丸になっているので呑むことは出来ませんが、山男はまだ時間が経っていないために、元に戻れるというのです。
そこで彼は、タイミングを見計らって黒い丸薬を呑んで元の姿に戻り、陳から逃げようとしました。ところが陳も丸薬を呑んで今までの倍の大きさになって、山男を掴んでしまいます。
「助けてくれ」と山男は叫びますと、夢はそこで終わりました。夢から覚めた彼は、六神丸や陳のことを考えたり、投げ出してある山鳥の羽を見たりした後、「ええ、畜生、夢のなかのこった。陳も六神丸もどうにでもなれ。」と言うのです。
この作品では、〈獲物の気持ちを理解したが故に、捕食者の都合を優先してそれを忘れなければならなかった、山男の姿〉が描かれています。
上記の一般性を論証するために、もう一度、物語のはじめに立ち返り、山男の心情に深く分け入って、「獲物」という存在がどのように変化していったのかを見ていきましょう。
夢を見る以前、山男にとっては「獲物」は獲物で、それ以上でもそれ以下でもありませんでした。
問題は六神丸を陳に呑まされたところからです。山男は自分が「獲物」として他の者に捉えられてしまったという、これまでにない、信じられない事実を理性的に受け止めようと努力します。しかしそれはなかなか受け止められず、捕食者である陳に抵抗しました。
ところが陳が山男が騒いで、危うく他の人々に正体がばれそうになり泣き言を述べはじめると、山男の態度も変化をみせます。嘗て捕まるまでは自分も捕食者の身であった為に、捕食者たる陳に同情を寄せたのです。そして彼は、捕食者の立場から客観的に獲物の立場をわきまえ、大人しく捉えられている事を約束します。それが捕食者から見た時の、獲物の正しいあり方なのですから。
ですが六神丸になった支那人の話を聞いて、彼の心は再び大きく揺れていきます。一度は助からない以上、陳の言うことを聞こうと考えた山男ですが、本心は矢張り助かりたいのです。山男はそのタイミングを見計らうために、獲物としての役割を果たす一方で、その時を窺います。そして他の人に自分と同じように、六神丸を呑ませようとした時、黒い丸薬を呑んで脱出を試みました。
ところが驚いた陳も、何かしらの丸薬を呑んで、倍以上の大きさになって彼を再び捕らえます。そうなると山男にとって、「獲物」の立場など忘れ、兎に角逃げたくて逃げたくて仕方がなくなっていきました。そして遂には理性を捨て去り、「助けてくれ」と叫ぶのです。
こうして彼は、逃げられるものなら逃げたいが、そうすることも出来ず藻掻く、或いは大人しくしている「獲物」の気持ちを知ったのでした。
ところが、ここで大きなひとつの問題が残ります。元来彼は捕食者で、それまでの体験は夢だったのでした。そうなると山男にとってはそうした気持ちなど、捕食を行う上では弊害以外の何物でもありません。そうした躊躇が、「獲物」を逃す事にだって繋がってしまうのですから。だからこそ彼は、再び自分の立場を確認した後、「ええ、畜生、夢のなかのこった。陳も六神丸もどうにでもなれ。」と言って、夢の体験そのものを忘れることにしたのでした。
一方の都合を知ることは、もう一方の都合を考えると邪魔になる場合だってあるのです。
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