2012年5月7日月曜日

牛鍋ー森鴎外

ある食卓で1人の男と女、そして7つか8つの、男の死んだ友達の子供(以下少女)が牛鍋を囲んでいました。その時男が黙々と肉を食べている最中、少女も肉に箸をつけようとします。ところが男は少女に対して、「待ちねぇ。そりゃあまだにえていねえ。」と言って、なかなか肉を食べさせようとはしません。ですがどうしても肉を食べたい少女は、どの肉もよく煮えだした頃に、少し煮えすぎたものや小さいものを口に運んでいきます。そしてそんな少女の姿を見て、男はとうとう箸をとめてしまうのでした。

 この作品では、〈他人の子供であるにも拘らず、少女にある優しさを見せる、ある男〉が描かれています。

 この作品は上記にあるように、他人として互いに少女と肉を巡って争っていた男が、少女の必死で肉を食べようとする姿に憐れみを感じて、やがて争う事をやめるところまでが描かれています。
 そして著者はこうした男の姿と親子で餌を奪い合う猿の親子の姿を比較することで、この男の行動から人間としての特殊な部分を引き出そうとしています。というのも、著者はこうした餌を巡る争いと譲り合いは猿等の世界にも存在しているものの、人間のそれは動物のそれよりも一線を画していると考えているようです。では、動物と人間ではどこがどのように違うのでしょうか。
 まず、著者が着眼した箇所は動物は親子でなら食べ物の争いを無闇にはせず、多少自分の食べたいという欲求を抑えて子供に餌を分けることもありますが、人間の場合は他人という、もっと広い範囲でそうした譲り合いが起こっているというところです。では、何故人間は動物よりも、より広い範囲で他人の為に自分の欲求を抑えることができるのでしょうか。それは、ひとつには人間には動物よりも複雑なコミュニケーション能力を持っており、それを使う範囲が動物よりも遥かに広いという事が関係しているのでしょう。というのも、動物の場合も人間の場合も声を出して他人になんらかの情報を発信することが出来ますが、その表現の幅は人間の方が明らかに広いのです。動物は「逃げろ」や「餌がある」など単純な事は説明できますが、その理由などは説明できません。一方、人間は動物よりも遥かに複雑な「言葉」を用いて現在の自分の状況やある場所での出来事を細かに説明できます。また、その活用の範囲においても、動物は餌の事や天敵の存在の事など、使う状況は限られていますが、人間の場合は特にそうした生命に関わる事でなくとも、互いに自分たちの近況を話していることだって頻繁にあります。ですから、人間は自分の状況や状態を動物よりもより細かに伝える事ができ、そうした情報を得る機会も多いのです。更にそうして集めた状況を私達は自分たちの頭の中で想像し、鮮明に描こうとします。そして、こうした情報のやり取りと想像が私達に他人への同情の心を与え、他人に対して優しさをおこすのです。

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