閭丘胤(りょきゅういん)という官吏は、ある時仕事で任地へ旅立とうとしていましたが、こらえきれぬほどの頭痛が起こり仕事を延期しなくてはいけない危機に陥っていました。ですが、そんな彼のもとに豊干(ぶかん)と名乗る乞食坊主が彼の頭痛を治すため、どこからともなくやってきました。閭はその申し出を受けることにして、彼から咒い(まじない)を施してもらいます。すると、なんとあれ程気になっていた彼の頭の痛みは、豊干の咒いによって消えてしまったというではありませんか。
そして豊干をすっかり気に入ってしまった閭は、仕事で台州(豊干のやってきた土地)に行くのだが、誰か偉い人はいないかと彼に問います。すると彼は「国清寺に拾得(じっとく)と申すものがおります。実は普賢(菩薩)でございます。それから寺の西の方に、寒巌という石窟があって、そこに寒山と申すものがおります。実は文殊(菩薩)でございます。」と答えてその場を去っていきます。これを鵜呑みにした閭は彼ら2人を探す為、台州へと向かいます。
しかし実はこの2人の正体は、やはり菩薩などではなくただの下僧だったのです。ですが、豊干の言ったことを信じきってしまっている閭は、結局彼らの前で丁寧に挨拶をしたばかりに、下僧に笑われ恥をかいてしまいます。
この作品では、〈自分よりも信仰心の強い相手を尊敬するあまり、かえって信仰を外れてしまった、ある官吏〉が描かれています。
この作品での閭の失敗は、言うまでもなく豊干のいう事をその儘鵜呑みにしてしまったというところにあります。では、何故彼は豊干の言うことを鵜呑みにしてしまったのかを、一度考えてみましょう。そもそも閭は豊干のことをあまり信用してはいませんでしたが、自身の悩みの種である頭痛をいともたやすく治したことで尊敬の念を抱いていきます。この尊敬というのは、彼が坊主であり日々の仏道修行によって磨いたであろう咒いによって彼の頭痛を治した事から、信仰の面から起こっているのでしょう。しかし閭は信仰心というものをそれなりには持っているものの、豊干の咒いは彼のそれを遥かに超えており、正しくはかることは出来ませんでした。そこで彼は、自分より強い信仰心を持っているであろう豊干の言葉をまるっきり信じることにしたのです。
ですが、閭よりも強い信仰心を持っているからと言って、豊干が常に正しい行動をしているとは限りません。例えば、一般的に親は子供よりも知識は豊富にありますが、童話「裸の王様」のように大人が間違っており、子供が正しい場合だってあるではありませんか。しかし閭の場合、そうした考えに至らなかったのは、豊干の言葉をその儘採用することで自分で考えることをやめてしまったというところにあります。まさに、閭の信仰心が彼の考える力を奪ってしまい、結果的に恥をかかなければならなかったのです。
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