2012年2月26日日曜日

ある恋の話ー菊池寛

著者はある時、自身の妻の祖母から誰にも打ち明けた事のない、恋の話を聞かされることとなります。というのも、彼女はそもそも借金の抵当といった形で酷い男と結婚し、死別したという経験から、男という生き物から一線を引いている節がありました。ところが、ある時彼女は染之助という役者の舞台を見たことをきっかけに、彼に恋をしてしまいます。さて、彼女は彼のどういったところに惹かれていったのでしょうか。

この作品では、〈表現と表現者を区別しつつも、それらの関係性に目を向けずにはいられなかった、ある町女房〉が描かれています。

まず、上記のように祖母は染之助に恋をしたはいいものの、ある日を境に彼女は彼に幻滅してしまいます。祖母は舞台以外での、実際に生活している彼の姿を目の当たりにした時、彼を「少しどす黒い頬のすぼんだ、皮膚のカラカラした小男」と嫌悪したのです。この体験から彼女は、自分は「染之助と云うような役者ではなく、染之助が扮している三浦之介とか勝頼とか、重次郎とか、維盛とか、ああした今の世には生きていない、美しい凛々しい人達」に恋をしていたのだと考えるようになっていきました。つまり、彼女は彼そのものではなく、染之助が表現している人物たちに恋をしていたのです。
ですがそうは理解しつつも、染之助の一座が上方へ帰る事になると、これまで彼との現実的な関わり合いを拒んでいた彼女も、「今まで自分の眼の前にあった華やかなまぼろしが、一度に奪い去られるような淋しさ」から、彼からの袱紗包を受け取ることにしたのです。更に、その中に入っていた手紙を読んで、彼に会いに行ったというではありませんか。一体これはどういうことでしょうか。
確かに彼女は、染之助そのものではなくて、彼が表現している役を好んでいたのは事実です。そして、それは彼女の中で舞台と現実との間にある境界によって区別されていました。ですが、彼がその土地を去ろうという時、その境界にヒビがはいってしまいます。何故なら、舞台の中の染之助と現実の染之助とは、彼女の中で区別され独立はしているものの、結局は舞台の役をつくっている人物は現実の彼そのものな訳ですから、当然彼がその場を去れば、自然と舞台の彼も姿を消してしまうことになります。だからこそ、彼女は自身がつくった境界の間で心揺らぎ、彼に会うことを決心していったのです。まさに、表現者と表現とは独立はしているものの、一方ではある繋がりを持っていると言えるでしょう。

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