ある夜、武男は愛犬ポチの鳴き声で目を覚ましてしまいます。と、思うと彼の目には真っ赤な火が映ります。そしておばあさまが布のようなものをめったやたらにり振り回している姿を見て、彼はそれが火事だとはじめて気がつきました。彼はおばあさま一人では駄目だと思い、彼は事態を納めるために、お母さんのもとへ、そこからお父さんのところへ、近所のおじさんの家々を走りまわります。そして彼や近隣の人々の助けもあり、火事騒動はどうにか落ち着きました。ですが、その三日後、彼らは火事の第一の発見者ポチが行方不明になっていたことがここで発覚します。はたしてポチは無事に生きているのでしょうか。
この作品では、〈主人公とその大切な友人との別れ〉が描かれています。
まず、作品を論じる前に、一般的な感動的なヒューマンドラマの構造について論じておきます。多くのヒューマンドラマの場合、その舞台として日常的な場面(ある事件が起きる以前のこと)と非日常的な場面(ある事件以降のこと)が用意されています。そこに二人以上の登場人物をおいて、事件の前後を比較するように描かれています。そうすることにより読者は、登場人物たちのバックグラウンドを知ることにより、「以前は仲良く暮らしていた人々が事件が起こったせいで、このように不幸になってしまった」と、事件の前後の彼らの様子を比較し悲しみをより引き立たせるのです。
では、この作品ではそれがどのように設定されているのでしょうか。まず、非日常的なパートとして火事という場面が設定されています。ですが日常的なパートは、物語が火事の場面(事件以降)から始まっていることもあり、一見、ないようにも感じます。しかし、よく見ると、「もとはっていえばおまえが悪いんだよ。おまえがいつか、ポチなんかいやな犬、あっち行けっていったじゃないか」という武男とその兄弟との喧嘩での会話や、ポチの普段の仕草や癖を描いている箇所があり、そこから日常のポチという像が浮き彫りになってくるのです。そして、ポチが衰弱するにつれて武男を中心にポチを労る姿から、読者は武男一家のポチへの思いを読み取り、更にそこから日常のポチの姿を思い起こし、感動するのです。
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