2011年2月6日日曜日

おぎんー芥川龍之介(修正)

  浦上の山里村に、おぎんと云う童女が住んでいました。彼女の両親は彼女を残したままこの世を去り、残されたおぎんはおん教を信仰しているじょあん孫七の夫婦の養女となります。三人は心からおん教の教えを信じ、村人に悟られないようひっそりと断食や祈祷を行い、幸せに暮らしていました。
ところが、ある年のクリスマスの夜、何人かの村人が孫七の家を訪れ、おん教のことがばれて彼らは捕らえられてしまいます。彼らはその後、その儘代官の屋敷に連れて行かれ、おん教を捨てされるべく、様々な責苦に遭わされました。しかし、彼らは一向に自分たちの信仰を捨てようとはしません。そこで代官は、一月彼らを土の牢に入れた後、焼き殺す事にしました。
そして一月後、全ての準備ができた時、ある役人の一人から「天主のおん教を捨てるか捨てぬか、しばらく猶予を与えるから、もう一度よく考えて見ろ、もしおん教を捨てると云えば、直にも縄目は赦してやる」と告げられます。そして、その言葉を聞いたおぎんの口から思わぬことが発せられます。
この作品では、〈恥とは〉ということが描かれています。 
まず、上記にもあるように、ここでおぎんは自らの死を目前に控えている最中、予想外のことを役人に告げます。それは、なんと彼女はこれまでずっと信仰を捨てなかったおん教を、ここにきて捨てると言うのです。この台詞を聞いた人々は、彼女が悪魔に取り憑かれ、死を恐れているのではないかと考えています。「生きている両親」もその例外ではありません。ですので、彼らはおぎんにもう一度信仰の心を起こし、所刑にされるよう説得をはじめます。ところが、おぎんは死を恐れている訳ではありません。彼女は、自身がおん教を捨てる理由についてこう述べています。「あの墓原の松のかげに、眠っていらっしゃる御両親は、天主のおん教も御存知なし、きっと今頃はいんへるのに、お堕ちになっていらっしゃいましょう。それを今わたし一人、はらいその門にはいったのでは、どうしても申し訣がありません。」なんと彼女はおん教を知らなかった、「死んだ産みの親」の事を考えて、自ら天国に行くことを拒んでいるのです。そして、それだけではありません。彼女はその後に「どうかお父様やお母様は、ぜすす様やまりや様の御側へお出でなすって下さいまし。その代りおん教を捨てた上は、わたしも生きては居られません。………」と、今度は生きている親」の顔を立てる為、おん教を捨てた自分も死ぬと言っています。ここに彼女の恥というものが成り立っています。この場合、彼女はどんな状況でもおん教を信じ、天国にいけない事が恥だとは考えていません。むしろ、おん教を信じるが故に「死んだ両親」、「生きた両親」を見捨て、自分だけが助かろうとする行動にこそ、恥を感じているのです。だからこそ著者は末尾で、「これもそう無性に喜ぶほど、悪魔の成功だったかどうか、作者は甚だ懐疑的である」と述べているのです。自分だけが信仰を捨てず、天国に行くことが常に誉れだとは限らないのです。

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