2011年2月10日木曜日

猿面冠者ー太宰治

 どんな小説を読ませても、はじめの二三行をはしり読みしたばかりで、もうその小説の楽屋裏を見抜いてしまったかのように、鼻で笑って巻を閉じる傲岸不遜の男がいました。彼はいかなる時でも文学作品の台詞を引用し、自身の世界に浸っています。そして、著者はそんな彼がもし小説を書いたならば、どのような作品が出来るのだろうか、と考え始めます。果たして彼はどのような作品を書き上げたのでしょうか。
この作品では、〈失敗するまで自分の実力が分からなかった、ある文学好きの男の姿〉が描かれています。
結論から言えば、彼の小説は「男は書きかけの原稿用紙に眼を落してしばらく考えてから、題を猿面冠者とした。それはどうにもならないほどしっくり似合った墓標である、と思ったからであった。」とあるように失敗に終わります。ですが、それまで彼は自身の小説と才能に自身を持っていました。何故彼は失敗するまで、自分の実力が分からなかったのでしょうか。
例えばあるお父さんは野球が好きで、毎日テレビでその試合を見ながら、監督の戦略や選手の批評をしているものですが、実際にそんなお父さんがプレーしてみるとプロと同じような珠を投げれるでしょうか。恐らく無理でしょう。お父さんは、プロの選手がボールを投げるとき、どのタイミングで腰をひねっているのか、手首を曲げているのか、どのような姿勢で投げているのかを全く知らないでしょう。これはプロの選手、つまり実際に体験した者でなければ、分からない事なのです。そして、このような一見しただけでは捉えにくい誤差が重なり、ボールの速さ、回転の違いという結果に繋がってくるのです。
そして、物語の彼についても同じことが言えます。確かに彼は文学作品を他人よりも多く読んでいるかもしれませんが、彼は文学作品を最後まで創作したことがない故に、創作の上での細やかな技術が読み取れなかったのでしょう。また彼はその細やかな技術が見えていないために、文学作品を創作することが簡単だと思い込んでしまっていたことも、自分の実力が分からなかった要因になっています。つまり、もう一度例に戻ってみれば、彼にはピッチャーが、単にキャッチャーに向けてボールを思いっきり投げているようにしか見えていなかったのです。その証拠に、彼は「やはり小説というものは、頭で考えてばかりいたって判るものではない。書いてみなければ。」と、あたかも何に注意しなくとも、小説は書けると考えているようです。これでは、多くの文学作品が同じレベルに見えても可笑しくありませんし、自分のレベルすら分からなくて当然です。そして、そんな彼だったからこそ、結果的に失敗するまで、自分の実力に一切気づかなかったのです。

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