2011年2月3日木曜日

おぎんー芥川龍之介

 浦上の山里村に、おぎんと云う童女が住んでいました。彼女の両親は彼女を残したままこの世を去り、残されたおぎんはおん教を信仰しているじょあん孫七の夫婦の養女となります。三人は心からおん教の教えを信じ、村人に悟られないようひっそりと断食や祈祷を行い、幸せに暮らしていました。
ところが、ある年のクリスマスの夜、何人かの村人が孫七の家を訪れ、おん教のことがばれて彼らは捕らえられてしまいます。彼らはその後、その儘代官の屋敷に連れて行かれ、おん教を捨てされるべく、様々な責苦に遭わされました。しかし、彼らは一向に自分たちの信仰を捨てようとはしません。そこで代官は、一月彼らを土の牢に入れた後、焼き殺す事にしました。果たして彼らはこの儘焼き殺されてしまうのでしょうか。
この作品では、〈生きているとはどういう状態なのか〉ということが描かれています。
まず彼らは火あぶりにかけられた当日、全ての準備ができた後、ある役人の一人から「天主のおん教を捨てるか捨てぬか、しばらく猶予を与えるから、もう一度よく考えて見ろ、もしおん教を捨てると云えば、直にも縄目は赦してやる」と告げられます。そして、その言葉を聞いたおぎんの口から思わぬことが告げられます。なんとあれ程おん教を捨てることを拒んでいた彼女が、自分からそれを捨てると言い出したのです。これを聞いた二人は必死に彼女の説得に努めます。ですが、彼女の「お父様! いんへるのへ参りましょう。お母様も、わたしも、あちらのお父様やお母様も、——みんな悪魔にさらわれましょう。」という台詞を聞いたおすみ(孫七の妻)はおろか、あれ程意固地になっていた孫七も信仰を捨てる決意を固めたのです。
では、ここで最大の疑問は、やはりおぎんは何故信仰を捨てることになったのかということでしょう。そもそも彼らの論理性というものは、信仰であるものが善、そうでないものは悪というところに成り立っています。そして彼らにとって、信仰の為に命を捨てることは善であり、いかなる状況においても信仰を捨てることは悪であったはずです。ここまで読むと多くの読者は、尚更おぎんの決断に疑問を感じているはずです。ここで注目すべきは、「この眼の奥に閃いているのは、無邪気な童女の心ばかりではない。「流人となれるえわの子供」、あらゆる人間の心である。」というおぎんの表情について述べられている箇所です。つまり、察するに彼女は孫七達に信仰を捨てさせてまでも、生きて欲しいと考えているのです。
私たちは現在の世界に何故生きているのでしょうか。論理的に突き詰めても、その答えはでないでしょう。ですが、少なくとも生きていて良かったという感想を持っているからこそ、こうして生活していることは確かなことのはずです。しかし、そうであるにも拘らず、おぎんや孫七は信仰の為にその素朴な感想を捨て去り、死のうとしています。彼女はここに信仰というものの欠陥を見ているのです。私たちが生きていて良かったという感想を持っている限り、自ら死を選ぶことは難しいことなのです。

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