2011年2月16日水曜日

じゅりあの・吉助ー芥川龍之介

  じゅりあの吉助は、肥前の国彼枠郡浦上村の生まれで、はやくに両親を亡くし、幼少の頃から土地の乙名三郎治の下男になった男です。しかし、彼は性来愚鈍の為、朋輩からは弄り物にされていました。その吉助は18、9の時に三郎治の娘、兼に恋をします。しかし、彼は自身の恋心に耐えられなかったために出奔します。
  そして3年後、彼はひょっこりと帰ってきて、再び三郎治の下男になります。ですが彼はその時、当時認められていなかった、キリスト教をその3年の旅の中で紅毛人に教えられ、信仰していたのです。そしてそれを知った彼の朋輩は三郎治に伝え、すぐに代官所へ引き渡されてしまいます。さて、その後彼は代官所で取り調べを受けるのですが、その中である奇妙な発言をします。それは一体どのようなものだったのでしょうか。
  この作品では、〈正しくキリスト教を理解出来なかったある愚人の姿〉が描かれています。
  まず、代官所の取り調べの中で彼は、キリスト教を説明する際、「べれんの国の御若君、えす・きりすと様、並に隣国の御息女、さんた・まりや様でござる。」、「えす・きりすと様、さんた・まりや姫に恋をなされ、焦れ死に果てさせ給うたによって、われと同じ苦しみに悩むものを、救うてとらしょうと思召し、宗門神となられたげでござる。」等と間違った理解をしていることが伺えます。具体的に指摘すると、キリストとマリアは同列の存在ではありませんし、また恋仲ではなく母子の関係になります。ですが、それでも著者は作品の最後に、そんな吉助に対して「最も私の愛している、神聖な愚人」と評しています。では著者は一体彼のどこを評価しているのでしょうか。それは、彼の一途な信仰心に他なりません。いかにキリスト教というものを理解していまいが、彼の信仰は本物であり、最後まで信仰し続けたところを著者は評価しているのです。
  そして、このようなエピソードは何もキリスト教に限っただけの話ではありません。仏教の法華経という経文の中の、周利槃特という人物のエピソードがそれにあたります。彼は2人兄弟の弟で、兄の方は聡明で釈尊(釈迦)の教えをよく理解していましたが、弟の方は愚鈍で、四つの句からなる一偈の中、一句を憶えようとすると、もう先の句を忘れてしまい、四ヶ月かかっても、その一偈すら暗記出来ないような人物でした。ですが、その強い信仰心のために彼は兄よりも先に仏界に至ることになります。
  これらから宗教というものは、いかにそれを理解しているかというよりも、それをいかに信仰しているかということを重視しているということが分かるはずです。 

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