2011年2月26日土曜日

雀ー太宰治

 私は津軽に来てその金木町から津軽鉄道で一時間ちかくかかって行き着ける五所川原という町で買い物していたところ、旧友の加藤慶四郎との再会を果たします。彼らは久しぶりの再会に浸った後、慶四郎の家で遊ぶことを約束します。
そして約束の日の夜、慶四郎は伊藤温泉での療養時代のことを話し出します。その中で彼はかつての自身の失敗についても触れることになります。それは一体どういったものだったのでしょうか。
この作品では、〈ある線と線を正確に結べなかったある小説家〉が描かれています。
まず、慶四郎の最大の失敗とは、かつて淡い恋心を抱いていた少女、ツネを自身の苛立ちから誤って足を射ってしまったことにあります。彼はその事件を今でも後悔していています。そして彼の告白の終りかけた時、細君がお銚子のおかわりを持って来て無言で2人に一ぱいずつお酌をして静かに立ち去る姿を著者が見たとき、彼はその細君が片足を引きずっている光景を目にします。この時、彼は直感的に、この細君はツネであると考え、「ツネちゃんじゃないか。」と慶四郎に告げます。ですが、これは著者の間違いで、細君はツネではありませんでした。
では、著者の失敗は何処にあったのでしょうか。彼は先程のエピソードと目の前の片足を引きずっている細君を頭の中に並べ、「片足を引きずっている」ことと、「慶四郎が誤ってツネを撃った」ことを結びつけて、細君とツネは同一人物だと結論づけました。しかし、ここで彼はある違和感を抱きます。それはツネは色白で大柄な体格だったということを取りこぼしていることにあります。ここから彼は、自分の結び方が間違っていたことに気がつきます。つまり彼は線と線とを結ぶ過程の中で、「片足を引きずっていること」以外のヒントを例外として片付けてしまったのです。
またこのような失敗は、私たちの世界に大きく横たわっています。例えば、あなたの家のある棚の上にはお菓子があります。それは小さい子供がどう頑張っても取れる位置にはありません。ですが、ある時それがすっかりなくなっているではありませんか。そこであなたは日頃あなたの3歳の子供が自分の目を盗んでお菓子を食べていることを思い出し、早速彼を叱り始めます。ところが、それをあなたの夫(または妻)がそれを止めに入ってきます。そしてよく事情を聞くとなんと、お菓子を食べたのは、子供ではなく、あなたの相方だったというではありませんか。ここから、あなたは、自分の論理の中で、一部(日頃子供は自分の目を盗んでお菓子を食べていること)だけを取り上げ線を結び、それ以外(棚の上のものには子供は手が出せないこと)を例外として片付けてしまったことがここで明らかになります。
論理の中で、例外を認め、線を引いてはいけません。例外を認めてしまうということは、その論理が既に間違っていることを示しているのです。

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