この作品ではそのタイトルが示す通り、様々な愚かな男たちが登場します。より甘い甘蔗をつくろうとしてその苗に砂糖汁をかけた男、より丈夫な壁をつくろうとして籾殻を入れすぎてしまった男、30日分の牛乳を一度に絞りとろうとした男……。
さて、これらの男たちの失敗は、一見違うもののように思えますが、実はある共通点が存在します。それは〈一部の真理を過度に押し広げ、誤謬へと変えてしまった〉というところにあります。例えば、1÷2=0,5という公式そのものは真理ですが、これを人間を数える時に適応していまうと、どうなるでしょうか。当然、人間一人を半分に割ることなどできませんから、これは誤謬ということになります。このように、それそのものは真理であっても、それを適応するところ、または状況によっては誤謬へと転化してしまいます。
そして、この作品に登場する男たちの失敗もこういったところにあり、甘蔗が甘いというのは真理ではありますが、そこに更に甘いものをかけたところでそのものが甘くなるはずがありません。また壁の材料の中に籾殻をいれると丈夫になるというのは真理ですが、入れすぎると今度は素材自体がくっつかなくなり、かえって脆くなってしまったのです。
2011年10月20日木曜日
2011年10月18日火曜日
犬ーレオニイド・アンドレイエフ
この犬は名前をつけて人に呼ばれたことがありませんし、長い冬の間、何処にどうしているか、何を食べているのか、誰も知りません。そして、この犬は人間の誰からも蔑み嫌われていたので、そこから人を恐れる心と人を憎む心を養っていきました。
そんな春のある日、犬はレリヤという、都会から別荘へと引っ越してきた娘と出会うのですが、その時犬は何を思ったのか、彼女の着物の裾を突然銜えて引き裂いき、いちごの木の茂っているところで逃げて行ってしまいます。これには当然彼女もこれには怒りを感じ、「本当に憎らしい犬だよ」と犬を罵ります。ですが、この出会いこそが、人間に対する犬の態度を大きく変えることになっていくのです。さて、果たして犬は何故人間を恐れ、憎んでいるにも拘らず、人間から離れることができなかったのでしょうか。
この作品では、〈人間と接したいが為に、かえって人間を傷つけることしかできなかった、哀れな犬の姿〉が描かれています。
まず、犬は確かに人間に酷い仕打ちを受け続け、恐れ嫌ってはいますが、一方ではそれを分かっていながら、「シュッチュカ※は行っても好いと思った。」、「時々はまた怒って人間に飛付いて噛もうとした」等と自ら人間に接しようとする節も見受けられます。一体何故でしょう。実は犬の中には、孤独である為人間と接したい気持ちと、その人間が自分を傷つける為に、恐れ憎む気持ちが同時にあるのです。しかし、この2つの矛盾した気持ちははじめから同時に存在していたのではなく、あくまで孤独なために他者を求めていたにも拘らず、それが全く逆の接し方をされたために恐れ憎まずにはいられなかった為に発生したものなのです。ですから言わば、犬にとって人間を飛びついて噛もうとする行為は、人間に対する好意の裏返しだったのです。そしてこの人間に対する攻撃に到るまでには、前者の気持ちの大きさと後者の気持ちの大きさが次第に逆転していったことも忘れてはなりません。
ですが、そんな犬にも転機が訪れます。それがレイヤとの出会いです。彼女ははじめ、犬の攻撃的な態度に怒りを覚えますが、やがて犬との生活の中で、付かず離れずの関係ではありましたが、徐々にこの犬の知っていきます。そうした中で、彼女はやがて自ら犬に近づき、犬を撫でようと試みます。この行動は、犬にも変化を起こし、はじめは警戒すらしていましたが、次第に彼女や周りの別荘の人々に心を開きはじめ、遂には「クサカの芸当は精々ごろりと寝て背中を下にして、目を瞑って声を出すより外はない。しかしそれだけでは自分の喜びと、自分の恩に感ずる心とを表わすことが出来ぬと思った。」となんと自身の感情を相手に表現しようと試みはじめます。こうして再び、犬の矛盾した感情は逆転をはじめ、他者を求める気持ちが全面に押し出され、人間と接することができるようになったのです。
※シュッチュカ:ロシアで知らない犬を呼ぶ時に使う呼び名。
そんな春のある日、犬はレリヤという、都会から別荘へと引っ越してきた娘と出会うのですが、その時犬は何を思ったのか、彼女の着物の裾を突然銜えて引き裂いき、いちごの木の茂っているところで逃げて行ってしまいます。これには当然彼女もこれには怒りを感じ、「本当に憎らしい犬だよ」と犬を罵ります。ですが、この出会いこそが、人間に対する犬の態度を大きく変えることになっていくのです。さて、果たして犬は何故人間を恐れ、憎んでいるにも拘らず、人間から離れることができなかったのでしょうか。
この作品では、〈人間と接したいが為に、かえって人間を傷つけることしかできなかった、哀れな犬の姿〉が描かれています。
まず、犬は確かに人間に酷い仕打ちを受け続け、恐れ嫌ってはいますが、一方ではそれを分かっていながら、「シュッチュカ※は行っても好いと思った。」、「時々はまた怒って人間に飛付いて噛もうとした」等と自ら人間に接しようとする節も見受けられます。一体何故でしょう。実は犬の中には、孤独である為人間と接したい気持ちと、その人間が自分を傷つける為に、恐れ憎む気持ちが同時にあるのです。しかし、この2つの矛盾した気持ちははじめから同時に存在していたのではなく、あくまで孤独なために他者を求めていたにも拘らず、それが全く逆の接し方をされたために恐れ憎まずにはいられなかった為に発生したものなのです。ですから言わば、犬にとって人間を飛びついて噛もうとする行為は、人間に対する好意の裏返しだったのです。そしてこの人間に対する攻撃に到るまでには、前者の気持ちの大きさと後者の気持ちの大きさが次第に逆転していったことも忘れてはなりません。
ですが、そんな犬にも転機が訪れます。それがレイヤとの出会いです。彼女ははじめ、犬の攻撃的な態度に怒りを覚えますが、やがて犬との生活の中で、付かず離れずの関係ではありましたが、徐々にこの犬の知っていきます。そうした中で、彼女はやがて自ら犬に近づき、犬を撫でようと試みます。この行動は、犬にも変化を起こし、はじめは警戒すらしていましたが、次第に彼女や周りの別荘の人々に心を開きはじめ、遂には「クサカの芸当は精々ごろりと寝て背中を下にして、目を瞑って声を出すより外はない。しかしそれだけでは自分の喜びと、自分の恩に感ずる心とを表わすことが出来ぬと思った。」となんと自身の感情を相手に表現しようと試みはじめます。こうして再び、犬の矛盾した感情は逆転をはじめ、他者を求める気持ちが全面に押し出され、人間と接することができるようになったのです。
※シュッチュカ:ロシアで知らない犬を呼ぶ時に使う呼び名。
2011年8月13日土曜日
火星の芝居ー石川啄木
この物語は二人の男の会話から成り立っています。ある男が『何か面白い事はないか?』と尋ねると、もう一人のはなんと、『俺は昨夜火星に行って来た』と言い出します。そして男が幾ら、それは嘘だといっても、やはりもう一人の男は真実だと言うのです。さて、この男にとって、真実とはどういうものなのでしょうか。
この作品は、一見するとただの頓智話に過ぎませんが、その中に登場する、もう一人の男の失敗というものが、現実を生きる私たちにとっては少し笑えない部分があります。そして、その男の失敗とは、〈自分の頭の中の出来事を真実として捉えてしまった〉というところにあります。
まず、下記にあるのは、この作品の中でのもう一人男の失敗を明確に表した一文です。
『だってそうじゃないか。そう何年も続けて夢を見ていた日にゃ、火星の芝居が初まらぬうちに、俺の方が腹を減らして目出度大団円になるじゃないか、俺だって青い壁の涯まで見たかったんだが、そのうちに目が覚めたから夢も覚めたんだ』
なんと、もう一人の男はそれまで火星に行ったと語っていたことは、全て夢の中の出来事だったのです。ですが、彼にとっては夢の中であれ、それは確かにあった出来事であり真実であると考えています。そして私たちは、この男が頭にあった出来事を真実として捉えている馬鹿らしさが滑稽に思い笑ってしまうことでしょう。しかし、そんな私たちですら、このもう一人の男と同じような失敗を無意識にしていることはないでしょうか。
例えば、私が大学受験に向けて勉強をしていた時、担任の先生から大学へ提出するための、自分の評価が書かれた内申書を受け取りました。内申書は封筒に入っており、開かないと決して見られないようになっていました。先生の話では、その内申書の内容というものは個人の情報であり、友達であろうと絶対に見せてはいけないとのことでした。そして、その日の放課後、私たちは自分たちの内申書どのような事が書かれているか、推理していました。ところがその話を偶然聞いていた私たちの担任の先生は、ある友人を激しく叱りました。なんと先生はその友人が自分の内申書を開けて、友達に見せているのだと勘違いをしてしまったのです。話は当然平行線でしたが、最終的にはその友人の反論は通らず、先生の頭の中ではその友人が内申書を見せたことになってしまったのです。この先生の失敗もまさに、自分の頭の中の出来事を真実としてとらえ、他人に押し付けてしまったことにあるのです。
頓知話とは一見単純に滑稽なものですが、そこにある失敗というものは、私たちも知らず知らずのうちにやっていることかもしれません。
この作品は、一見するとただの頓智話に過ぎませんが、その中に登場する、もう一人の男の失敗というものが、現実を生きる私たちにとっては少し笑えない部分があります。そして、その男の失敗とは、〈自分の頭の中の出来事を真実として捉えてしまった〉というところにあります。
まず、下記にあるのは、この作品の中でのもう一人男の失敗を明確に表した一文です。
『だってそうじゃないか。そう何年も続けて夢を見ていた日にゃ、火星の芝居が初まらぬうちに、俺の方が腹を減らして目出度大団円になるじゃないか、俺だって青い壁の涯まで見たかったんだが、そのうちに目が覚めたから夢も覚めたんだ』
なんと、もう一人の男はそれまで火星に行ったと語っていたことは、全て夢の中の出来事だったのです。ですが、彼にとっては夢の中であれ、それは確かにあった出来事であり真実であると考えています。そして私たちは、この男が頭にあった出来事を真実として捉えている馬鹿らしさが滑稽に思い笑ってしまうことでしょう。しかし、そんな私たちですら、このもう一人の男と同じような失敗を無意識にしていることはないでしょうか。
例えば、私が大学受験に向けて勉強をしていた時、担任の先生から大学へ提出するための、自分の評価が書かれた内申書を受け取りました。内申書は封筒に入っており、開かないと決して見られないようになっていました。先生の話では、その内申書の内容というものは個人の情報であり、友達であろうと絶対に見せてはいけないとのことでした。そして、その日の放課後、私たちは自分たちの内申書どのような事が書かれているか、推理していました。ところがその話を偶然聞いていた私たちの担任の先生は、ある友人を激しく叱りました。なんと先生はその友人が自分の内申書を開けて、友達に見せているのだと勘違いをしてしまったのです。話は当然平行線でしたが、最終的にはその友人の反論は通らず、先生の頭の中ではその友人が内申書を見せたことになってしまったのです。この先生の失敗もまさに、自分の頭の中の出来事を真実としてとらえ、他人に押し付けてしまったことにあるのです。
頓知話とは一見単純に滑稽なものですが、そこにある失敗というものは、私たちも知らず知らずのうちにやっていることかもしれません。
2011年8月10日水曜日
さるのこしかけー宮沢賢治
楢夫は夕方、裏の大きな栗の木の下に行きました。その幹の、丁度楢夫の目位高い所に、白いきのこが三つできていました。彼はそれを「さるのこしかけ」と呼びその大きさから、そこに普段から座っている猿がどのようなものかを想像してしいました。すると、そこに三疋の小猿が現れ、「さるのこしかけ」へと座り、楢夫と話しはじめます。はじめは、この小猿たちは楢夫に対して高慢な態度をとっていましたが、何故かその態度を改め、「楢夫さん。いや、どうか怒らないで下さい。私はいい所へお連れしようと思って、あなたのお年までお尋ねしたのです。どうです。おいでになりませんか。いやになったらすぐお帰りになったらいいでしょう。」と、彼をある場所へと案内しようとします。果たして彼らは楢夫を何処へ連れていき、何をしようとしているのでしょうか。
この作品では、〈相手の力量を目に見えるもので測ってしまった、ある少年〉が描かれています。
まずこの後楢夫と小猿が向かった先は、種山ヶ原という場所でした。そこに着いた楢夫ははじめ「とんでもない処へ来たな。すぐうちへ帰れるかい。」と考えていましたが、猿たちの軍隊の演習がはじまるとこれが面白くて、暫く見学していました。ですが、突然この小猿の軍隊は彼に襲いかかり、小さな編みでぐるぐる巻きにされ、林よりも高い場所から落とされてしまうのです。では、彼は何故このような酷い目にあってしまったのでしょうか。
そもそも楢夫はこの小猿達について、その小さい身なりから、「いくら小猿の大将が威張ったって、僕のにぎりこぶしの位もないのだ。どんな顔をしているか、一ぺん見てやりたいもんだ。」と自分より実力が下の存在だと考えていました。しかしその小さな猿達によって、彼は騙されて彼以上に大きな力によって翻弄されて閉まったのです。まさに彼は、猿の力量を見誤った為に、このような酷い目にあってしまったのです。
この作品では、〈相手の力量を目に見えるもので測ってしまった、ある少年〉が描かれています。
まずこの後楢夫と小猿が向かった先は、種山ヶ原という場所でした。そこに着いた楢夫ははじめ「とんでもない処へ来たな。すぐうちへ帰れるかい。」と考えていましたが、猿たちの軍隊の演習がはじまるとこれが面白くて、暫く見学していました。ですが、突然この小猿の軍隊は彼に襲いかかり、小さな編みでぐるぐる巻きにされ、林よりも高い場所から落とされてしまうのです。では、彼は何故このような酷い目にあってしまったのでしょうか。
そもそも楢夫はこの小猿達について、その小さい身なりから、「いくら小猿の大将が威張ったって、僕のにぎりこぶしの位もないのだ。どんな顔をしているか、一ぺん見てやりたいもんだ。」と自分より実力が下の存在だと考えていました。しかしその小さな猿達によって、彼は騙されて彼以上に大きな力によって翻弄されて閉まったのです。まさに彼は、猿の力量を見誤った為に、このような酷い目にあってしまったのです。
2011年8月6日土曜日
兵士と女優ーオン・ワタナベ
ある時、オング君は戦争から帰ってきて町を歩いていると、知り合いの娘に声をかけられます。久しぶりの再会を二人は喜び、やがて喫茶店でコーヒーを飲みながらお互いの近況を話していました。そして二人の話は『時は過ぎ行く』という映画の話題になります。娘の話によると、その映画は戦争を美化し若者を感化し、戦争に駆り立てているというのです。この話をもとに、二人の戦争批判、及び映画批判が繰り広げられるのです。
この作品の重要な点は、〈当時の世界が戦争に向かって進んでいる中、二人の会話を通して真っ向からそれを批判した〉ことにあります。
まず彼らの批判の中身というものは、映画によって戦争を美化し、若者を先導していること、また現在行われている戦争というものは、一部の金満家の利益によるものであり、これらは最も不埒な悪であるというものでした。
ですが、この物語では批判されていませんが、これはただ利用する側だけに問題があり、利用される側には問題はなかったのでしょうか。まず映画の問題を言えば、もしも各個人がそのような映画を見たとしても、一度立ち止まって正しく判断する能力があれば、そのようなことは怒らなかったのです。ですが、彼らは考えようとせず、また正しい判断が出来なかったために、戦争に出兵してしているので、まだ救いようがあると言えます。問題なのは、もう一方の一部の金満家たちに利用されている人々、つまりオング君とその娘です。何故なら、彼らは自分たちの仕事が悪いことだと知っておきながら、彼らの利益の為、それに加担しています。こうした彼らの行動こそが、事態を悪化させ、最も不埒な悪なるものを助長されているのです。物事はどちらか一方に原因があるのではなく、両者に原因と成りうる性質が存在しているのです。
この作品の重要な点は、〈当時の世界が戦争に向かって進んでいる中、二人の会話を通して真っ向からそれを批判した〉ことにあります。
まず彼らの批判の中身というものは、映画によって戦争を美化し、若者を先導していること、また現在行われている戦争というものは、一部の金満家の利益によるものであり、これらは最も不埒な悪であるというものでした。
ですが、この物語では批判されていませんが、これはただ利用する側だけに問題があり、利用される側には問題はなかったのでしょうか。まず映画の問題を言えば、もしも各個人がそのような映画を見たとしても、一度立ち止まって正しく判断する能力があれば、そのようなことは怒らなかったのです。ですが、彼らは考えようとせず、また正しい判断が出来なかったために、戦争に出兵してしているので、まだ救いようがあると言えます。問題なのは、もう一方の一部の金満家たちに利用されている人々、つまりオング君とその娘です。何故なら、彼らは自分たちの仕事が悪いことだと知っておきながら、彼らの利益の為、それに加担しています。こうした彼らの行動こそが、事態を悪化させ、最も不埒な悪なるものを助長されているのです。物事はどちらか一方に原因があるのではなく、両者に原因と成りうる性質が存在しているのです。
2011年8月3日水曜日
伸び支度ー島崎藤村
子供好きの娘、袖子は高等小学校を終わるか終わらないかのぐらいの年頃になった頃、「とても何かなしにはいられな」い衝動を感じはじめます。その時分から、彼女は別の近所の子供を抱いてきて、自分の部屋で遊ぶようになります。ですが、袖子は自身が初潮を迎え大人になっていくことを自覚しはじめた途端、彼女はそれまで可愛がっていた子供に対して、別の異なる印象を持ちはじめ、以前のように抱くことができなくなっていきます。一体彼女は初潮を迎え、何を感じているのでしょうか。
この作品では、〈子供から大人への成長を感じはじめると共に、親からの自立を感じはじめるある少女〉が描かれています。
まず、袖子の父は、彼女に対して人形を扱うように接していた節があり、彼女に対して、なんと彼女ではなく自分の好みの服、好みの人形を与えていたのです。そんな父の姿を見て、彼女は自身が愛する子供に対しても同じように接していました。
しかし、袖子が初潮を迎えると共に、この父娘は自分がそれまで愛していたものへの印象を徐々に変えていくことになります。父はそれまで何でも自分の思い通りになっていた愛おしい人形娘に対して、徐々に彼女が人形(子供)ではなくなり、自らの手から離れていくことを感じていきます。そして一方の娘の袖子も、「さものんきそうな兄さん達とちがって、彼女は自分を護らねばならなかった。」の一文からも理解できるように、自らの大人としての自立を感じています。これは、今まで今まで父の人形として生きてきた彼女にとって、人形以外の生き方を強いられるわけですから、大なり小なり不安なものであるに違いありません。ですが、あくまで大人になりつつある段階なのであり、彼女はまだ子供でもあります。この中途半端な立場から、袖子はそれまで愛してた子供を見た時、羨ましい気持ちを感じると共に、やがて彼らも自分と同じように、彼女ものとから離れ、自立していくことを悟り、これまでのように抱けなくなっていったのです。
この作品では、〈子供から大人への成長を感じはじめると共に、親からの自立を感じはじめるある少女〉が描かれています。
まず、袖子の父は、彼女に対して人形を扱うように接していた節があり、彼女に対して、なんと彼女ではなく自分の好みの服、好みの人形を与えていたのです。そんな父の姿を見て、彼女は自身が愛する子供に対しても同じように接していました。
しかし、袖子が初潮を迎えると共に、この父娘は自分がそれまで愛していたものへの印象を徐々に変えていくことになります。父はそれまで何でも自分の思い通りになっていた愛おしい人形娘に対して、徐々に彼女が人形(子供)ではなくなり、自らの手から離れていくことを感じていきます。そして一方の娘の袖子も、「さものんきそうな兄さん達とちがって、彼女は自分を護らねばならなかった。」の一文からも理解できるように、自らの大人としての自立を感じています。これは、今まで今まで父の人形として生きてきた彼女にとって、人形以外の生き方を強いられるわけですから、大なり小なり不安なものであるに違いありません。ですが、あくまで大人になりつつある段階なのであり、彼女はまだ子供でもあります。この中途半端な立場から、袖子はそれまで愛してた子供を見た時、羨ましい気持ちを感じると共に、やがて彼らも自分と同じように、彼女ものとから離れ、自立していくことを悟り、これまでのように抱けなくなっていったのです。
2011年7月31日日曜日
かちかち山ー芥川龍之介
この作品では、童話『かちかち山』の中の、兎が翁のために敵討ちに向かうワンシーンが描かれています。本作の特徴は著者である芥川龍之介らしい、「老人の妻の屍骸を埋めた土の上」、「老人は、蹲つたまま泣いてゐる。兎は何度も後をふりむきながら、舟の方へ歩いてゆく。」等の〈陰鬱かつリアリティに溢れた表現〉にあります。そして、こうした物語では描かれていない翁の嫗の墓前で悲しんでいる姿、兎が翁を案ずる姿をあえて描くことによって、それまで子供向けに描かれていた童話が一気に現実的な作品へと変化し、登場人物の心情に引きこまれていきます。そして読者は登場人物の悲しさ、恨みなどを知ることにより作品で描かれていなかった場面をも想像することになるでしょう。
著者はこの作品において、原作にあった行間を彼自身が独特の感性によって一部を埋めることに、読者に新たな楽しみを与えているのです。
著者はこの作品において、原作にあった行間を彼自身が独特の感性によって一部を埋めることに、読者に新たな楽しみを与えているのです。
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