著者は子供の頃、ある遊びに没頭している時期がありました。その遊びとは、2人いれば出来る遊びで、1人が目を瞑り、もう1人が穴を掘ってそこに草花を埋め、硝子の破片で蓋をしてその上から土をかぶせます。そして隠し終わったら、目を瞑っていた者は目をあけて花を探す、というものでした。彼はこの隠された花にこそ、この遊びの魅力を感じていたようです。
そしてある時、著者はこの遊びを豆腐屋の林太郎(りんたろう)と織布工場のツルとで行っていました。やがて遊びも終わりかけた頃、最後に林太郎とツルが隠す役を、著者が探す役をすることになりました。ですが、いくら彼が探しても花の場所が分かりません。そしてツルもツルで、その場所を教えてはくれず、「そいじゃ明日さがしな」と言うだけでした。彼はツルの作品(花)を常々素晴らしいと評価していたことと、ツルへの好意の気持ちから彼女の言葉を採用し、明日も明後日も、暇さえあればたびたび行ってそこを探しました。そうしていくうちに、彼はその場所に魅力を感じていくようになっていきます。ですが、花は一向に見つかりません。
そんなある時、著者は花を探しているところを林太郎に目撃され、ツルはそもそも花を隠していなかった事を告げられます。その瞬間から、著者は花が隠されていた場所に何の魅力を感じなくなりました。
やがて月日は経ち、著者とツルの関係は恋仲にまで発展しましたが、彼自身は彼女の性格を知りひどく幻滅したといいます。またそれは、「ツルがかくしたようにみせかけたあの花についての事情と何か似てい」るというのです。これは一体どういうことでしょうか。
この作品では、〈ある一部の性質を拡大して、全体を見せているある女性の特性を見抜いた、著者の審美眼〉が描かれています。
あらすじにある通り、著者はツルが花を隠したように見せかけてその場所に魅力を持たせていた事と、ツルの性格を知りひどく幻滅した事について、ある共通点を見出しています。それは両者とも、故意かそうでないかは兎も角ツル自身が、著者が魅力を感じ得ないものにまである性質を拡大させて、人やものを演出していたということです。というのも、著者はツルがそこに花を隠したという嘘をつかなければ、当然そこに魅力を感じなかった事でしょう。そしてツルがこの遊びを得意だったという性質が更に、その場所に新たな付加価値をつけていた事を手伝っていた、という点も見逃してはなりません。
また彼はその遊びが得意な、繊細なツルを好いていました。恐らくこれもツル自身のそうした性質を著者の中のツルの像に押し広げていった事で、彼女の本来の性格を隠していたのでしょう。
そしてこうした性質はもともと人間、特に女性の性質として備わっている節があります。例えば女性は男性よりも「外見的な美」というものに熱心で、服や化粧で自分を可愛く、美しく、またかっこ良く演出することがあります。またそうした演出が、鑑賞者(つまり男性)に「内面的な付加価値」を与えているのです。つまり可愛い女性というものは、実際は気が強くても気が弱く見えることがありますし、美しい女性というものは、普段下品な言葉づかいをしていても、外見だけ見ればそうは見えないことがあります。そしてもし鑑賞者がそこに気づいた時、彼らは著者と同じように大きな幻滅を感じる事でしょう。そしてその差が大きければ大きい程、幻滅も大きいはずです。
作品の話に戻りますと、この著者もツルのつくる作品(花)を高く評価していたからこそ、その虚構がそれだけ彼に大きな失望を抱かせてしまった事は言うまでもありません。まさにツルの花を隠す事が得意だという利点が、かえって彼女の欠点を目立たせる結果となってしまったのです。
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