2012年10月7日日曜日

ヴィヨンの妻ー太宰治

 俗人で破天荒な性質を持っている詩人、大谷は女遊びとお酒を好み、ある時そうした遊びのお金欲しさの為に自分がよく通っている料理店からお金を盗んでしまいました。そしてその現場を店の主人と奥さんに目撃されてしまい、家までおしかけられてしまいます。そこで大谷の妻である「私」は夫に変わってそのお店で働き、お金を返すことにしました。
 退廃的で死を望む夫は日々女と酒に溺れ、自分の生を呪いながら生きています。その一方で「私」は他の女といる夫を見守りながら仕事に奮闘し、たとえお店のお客に汚されても生を肯定し、日々を過ごしてゆくのでした。

 この作品では、〈生きていくことに価値を見いだせないあまり、かえって誰よりも自然に生きてゆくことができた、ある女性〉が描かれています。

 この作品は、自分がこの世で生きることを呪いながらも死ぬに死ねず、生きている大谷と、その妻である「私」とを比較する形で描かれています。そこでここではそれぞれの生き方を比較ながら論じていくことにします。
 はじめに大谷の方ですが、彼は死にたくて仕方がないが、へんな「怖い神様にたいなもの」が、死ぬことを引き止めているというのです。この「神様みたいなもの」が引き止めるという表現の中には、恐らく生きるということに何か絶対的な強制力、価値を認めているという含みがあるのでしょう。ですから彼は死ぬに死ねず、だらだらと生きるしかなったのです。
 それでは一方の「私」はどうでしょうか。彼女は夫が他の女と一緒にいようが、夫の借金を肩代わりしようが、世の中の見方を変えるような事は一切ありません。また彼女は何かに対して喜怒哀楽する事はあっても、夫は妻以外の女といるべきではない、他人に迷惑をかけてはならない、生きなければらない、といった義務的な価値観を持っていないのです。この彼女の性質が読者たる私達に、「私」に対して奇妙かつ神秘的な印象を与えているところなのでしょう。
 では、何故彼女は大谷のように、また私達のように義務的な価値観をもたないのでしょうか。価値とは何処にあるのでしょうか。そもそも価値とは人間以外が持ち得ない概念なのです。というのも、例えば蜘蛛は母親が殺されようが、自分の子供が殺されようが、悲しんだりはしません。それどころか種類によっては、生まれた瞬間に自分の母親を食べてしまうものだっているのです。またそうして育った蜘蛛もまた、他の動物に捕食、或いは自分も子供達に食べられてしまいます。自然界において、生と死というものは現象以上の価値を持たず、単純に生きるために殺し殺されていくのです。しかし動物たちよりも大きな社会で暮らしている私達にとって、それでは困ります。社会的な生き物である私達には、その大きさだけの価値が必要になってくるのです。もしなければ、誰もが必要であれば他人のものを盗み、邪魔であれば他者が他者を殺しといったように、社会が成り立たなくなっていきます。だからこそ、私達は大谷のように生きることに現象以上の価値を求めなければならないのです。
 ですが「私」はそうではありません。彼女にとって大谷の借金を返済することも、生きることも全て現象でしかないのです。そういった意味では、彼女は人間の社会で生きながらも、自然的な考え方をしていると言っても過言ではないでしょう。ですから彼女は男に汚されたすぐ後でも、ただ「私たちは、生きていさえすればいいのよ」と言うことが出来たのです。
 まさに生きることに必要以上の価値観を持っていない事が、かえって「私」に生きる強さを与えているのです。

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