むかしむかし、町と田舎に大きな屋敷を構えた、大金持ちの男いました。ですが彼は運の悪いことに、恐ろしい青ひげを生やしているため、他の者から恐れられ中々結婚できません。
そこで青ひげは自分の屋敷の近くに住んでいる美しい娘を奥さんとして迎えようと、その親子と近所の知り合いの若い人々を大勢招いて、一週間自分の屋敷でもてなして機嫌をとることにしました。この青ひげの作戦は功を奏し、娘は青ひげと結婚することを決意していきます。
そうして、結婚して娘が彼の奥さんとなってひと月経ったある時、青ひげは6週間旅に出る事にしました。その際、彼は家の鍵を全て奥さんに預けます。そして彼女に、地下室の大廊下の、一番奥にある小部屋の鍵だけは決して使ってはならないと告げました。奥さんは、はじめはもし開けてしまったら何をされるのか分からないという青ひげへの恐ろしさから、その約束を守っていました。しかしその部屋がどうしても見たくなった彼女は、とうとうその部屋を開けてしまいます。中には5、6人の女の死体がありました。それを見て奥さんは恐怖し、すぐに扉を閉めます。
ですがやがて青ひげが帰ってきて、自分の奥さんが約束を破ったことがばれてしまいます。そして彼は怒り、奥さんを殺そうとしました。ですが運良く青ひげの屋敷に向かっていた兄達に彼女は助けられ、青ひげは殺されてしまいます。
こうして奥さんは青ひげの狂気から救われて、彼の財産は自分の姉たちに分けることにしました。
この作品では、〈身に余る好奇心は身を滅ぼしかねない〉ということが描かれています。
本来、私の評論というものは作品の中から著者の主張を読み取り、それを一般性として括弧の中に表現して、それを軸に論じていきます。ですがこの作品では既に、著者であるシャルル・ペロー本人が作品の末尾に自身で一般性を述べているので、それをもとに論じていきたいと思います。因みに本文の一般性は、「ものめずらしがり、それはいつでも心をひく、かるいたのしみですが、いちど、それがみたされると、もうすぐ後悔が、代ってやってきて、そのため高い代価を払わなくてはなりません。」というものです。そして著者の一般性をもとに作品を見ていくと、この作品は奥さんの、青ひげの秘密の部屋を覗きたいという好奇心が彼女自身の身を危険に晒したのだ、という事を描いていることになります。
ところで私は著者の一般性をもとに、新たに一般性を出しているわけですが、私は著者の一般性にはない、「身に余る」という言葉を用いています。というのも、この表現こそ、この作品の理解をより深いものにしてくれる言葉だと考えたからです。そしてこの表現を用いるに至ったのは、奥さんのある葛藤について注目したからです。その葛藤とは言うまでもなく、地下の部屋を開けるか開けまいかということに他なりません。もし彼女がここで踏みとどまっていれば、このような悲劇は起こらなかったでしょう。では、何故彼女は地下の部屋を開けてしまったのか。
ひとつは彼女に危機管理が欠けていたことにあります。例えば優秀なレーサー等はそうした能力に長けているものです。彼らは自分の走るコースを見た時に、このコースでこのカーブならばここまでのスピードなら曲がれるがそれ以上出すと危ないと判断することができます。そしてこの奥さんにも、青ひげと自分の心の距離をはかり、これぐらいのことであれば許してくれるという判断が、自分で下すことができていれば良かったことになります。
ですがこう考えると、世の中にははじめての宇宙飛行やはじめての世界一周など、我が身に有り余るだけのリクスを背負わなければ、成し得ない大成だってあるはずではないないか、という反駁があっても可笑しくはありません。しかしそうかと言って、果たして奥さんが青ひげの秘密を知ることが、彼女にとって、或いは他の人々にとってどれだけ必要なことだったのでしょうか。結果的に青ひげの殺人が分かり、それ以上の犠牲者が出る事を防いだものの、部屋を開けるまでの時点ではそれが分からなかった訳ですし、何よりも、奥さんは多少なりとも青ひげの残虐性を知っておきながら部屋を開けてしまったのです。ですから彼女は、自分の危機管理能力も足りなかった上に、リスク管理すらできていなかったことになります。
こうして奥さんは、自分の身に余る判断と行動をしてしまった為に、恐ろしい体験をしなければならなかったのです。
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