「私」はもともと大人しく情け深い性質で、動物が大変好きでした。その為、鳥類や金魚や兎や「黒い猫」等を飼っていました。特に最後に挙げた獣は非常に大きく美しく利口であり、「私」の一番のお気に入りでした。ですが彼はいつしか、酒乱の為に自分の奥さんはおろか、可愛がっていた動物、そして自身のお気に入りだったはずの「黒い猫」にまで手を出すようになっていってしまいます。
そしてある時、とうとう彼はあるひょんな事をきっかけに憤怒(ふんぬ)し、「黒猫」の目玉をくり抜いてしまいます。しかしその時の興奮がおさまり我にかえった彼は、自分のしたことに対して後悔を感じはじめました。ところがやがてその後悔は消え去り、彼は再び暴力をふるいはじめ、遂には「黒猫」を殺してしまいます。
こうして「黒猫」を殺した後、彼は再び後悔の念に襲われる事になります。そして次第にその感情の強さ故に、自然と同じような猫を探し求めるようになっていきました。そんなある時、彼は酒場で自身が嘗て殺した猫と瓜二つのものに遭遇します。その猫と出会った瞬間、彼は迷わず持ち帰り、家で飼うことにしました。ですが、やはり彼の動物への虐待の習慣は抜けきっっておらず、嘗て「黒猫」を殺した時と同じ感情をこの猫に感じはじめていきます。しかし猫を殺した時の後悔がその時は強かった為、彼は猫に手をあげる事を我慢することにしました。
ですが、次第にそうした感情は強くなっていくにつれて、彼は猫に対してどういうわけか恐怖をも感じはじめ、とうとう猫を庇った奥さんと猫自身を殺して家の壁に塗りこんでしまうのでした。
そしてある時、彼の家に警官が来て、家宅捜索が行われました。ですが怪しいものは一切出て来ません。これに気を良くした彼は、警官たちの前で、「この壁はがんじょうにこしらえてありますよ。」と言ってわざと壁を叩いて見せました。すると、彼はどこからともなくあの忌々しい「黒猫」の声を聞き、慄いてしまいます。その様子を見ていた警官たちはすぐに壁を崩し、死体を発見したのでした。
この作品では、〈後悔の念が強いあまり、かえってそれ以上の失敗をしなければならなかった、ある男〉が描かれています。
この作品を一読した後、多くの読者は「何故主人公はあれ程までに猫を殺した事を後悔していたにも拘わらず、それ以上の失敗をしなければならなかったのか」という大きな疑問を感じるのではないでしょうか。その理由を考えるにあたって、私は彼の感情の揺れ動きに着眼しました。というのも、彼は猫と関わっている時、いない時に拘わらず、恐らく酒乱し猫を傷つけた時点から、彼の精神は極めて不安定になっていき、そこが螺旋階段を転げ落ちるように、転落しなければならなかった要因になっているのではないかと考えたからです。
そこでここでは順を追って、彼の行動と感情を軸に、何故彼が猫を殺さなければならなかったのかを見ていきましょう。そもそも彼は酒乱の為に、猫自身に虐待するようになっていきました。ですが、この時はまだ猫の中には彼の怒りをかう要素は全くなく、単なるとばっちりに過ぎなかった、と言って良いでしょう。そして次第に虐待はエスカレートしていき、遂には「黒猫」の目玉をペンナイフでくり抜いしてしまいます。そこから彼は「黒猫」に対して、後悔の念を感じはじめます。ところがそうして後悔を感じていくにつれて、その後悔はやがて怒りへと転化していきます。これはちょうど、私達が昔の失敗を友人達に掘り返される心情に似ているところがあります。幾ら、その事を後悔しているとは言え、その友人が第3者か当人であったかに拘わらず、数度、数十度と言われれば、怒りがわいてくるものです。この作品の主人公もそれと同じで、直接的に掘り返されずとも、「黒猫」を見る度に、嘗ての恐ろしい自分を思い出し、いつしかしつこく責めたてられているような心情になっていったのです。やがて、ある時点で彼のその怒りは頂点に達し、「黒猫」を殺してしまったのです。
ですが、再び同じ失敗をしてしまった彼は、再び後悔の念にとらわれていったのです。感の鋭い方はもうお分かりでしょう。彼はこうして、自身の心の中で後悔と怒りとを交互に感じていき、しどろもどろになっていったのです。ですが、ただ同じ繰り返しを心の中でしていたわけではありません。1度目の失敗と2度目の失敗とでは、後者の方が罪がより大きくなっているわけですから、後悔の念もより大きくなっており、それだけ猫を見た時に感じる気持ち(自分で自分を責める気持ち)も大きくなっていったのです。すると、今度はその後悔の念が大きすぎるあまり、その怒りに加えて、恐怖を感じていくようになっていきました。こうして「黒猫」は彼の心の中で、彼の存在を脅かす、まさに魔物と化していったのです。だからこそ、彼は是が非でもその魔物を再び退治して、自分の身を守る必要があったのでした。そしてそうした念の強さあまって、彼はなんの関係もない奥さんまで殺してしまったのです。ですが、いよいよ後悔と恐怖の念が強くなっていった彼は、壁を叩いた瞬間、つい自分がしてしまった事の恐ろしさを改めて感じてしまったのでしょう。その時、彼は自分の心の中の猫の像から、「黒猫」の声を聞いてしまい、つい慄いてしまい、つかまってしまったのです。
このようにして彼は、後悔と怒りと恐怖を複雑に感じていくにつれて、殺人という大罪を犯してしまったのです。
※余談
またこの作品の不気味さというものは、こうした彼自身の心情の変化の他に、著者自身の描写力からきています。というのも、この作品は主人公である「私」の一人称視点から物語られています。そして主人公は自分が殺人を犯し他人に見つかるまでの過程の中で、2匹目の「黒猫」に対して、1匹目の「黒猫」に自分がつけた痕が日に日に浮かび上がってくる、壁に埋めたはずの猫声を聞く、等の奇怪な現象に遭遇します。その描写はどれもリアリティがあり、恐ろしいながらも、つい目を休めてしまうことを忘れていくことでしょう。ですがもし一般の作家が同じ場面を書いたならば、「あたかも」、「まるで」など、それは主人公だけにしか見えていなかったのだ、という含みの言葉を用いて、作品自体のリアリティを削いでしまうことはないでしょうか。そして、もしそういった言葉を使わなかったとしても、ここまでリアリティある言い回しになっていたのでしょうか。
そう、こうした場面は作品の世界では起こっていないが、主人公の頭と「読者には」そう見えていなければならない。また、後に「あれは主人公の頭の中でしか起こっていないのだ」ということを「読者にだけは」理解させなければならないという、複雑な場面なのです。
こうした場面を描ききってしまい、私達にリアリティがあるけど、作品の中でこの描写が起こっているのではなく、主人公の頭の中で起こっているのだ、と理解できるのは、この著者の手腕がそれだけ確かな事への証明にもなっているのです。
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