一本の木と一羽の小鳥とは大変仲がよく、小鳥は一日中その木の枝で歌を歌い、木もそれをずっと聞いていました。ところが冬が近づいてきたので、小鳥は木のもとを離れなければならなくなりました。そこで小鳥は木に来年もそこに来ることを約束し、その場を去っていきました。
ですが、春がめぐって小鳥が帰ってくると、木はそこにはなく、根っこだけが残っていました。木は一体どうなってしまったのでしょうか。
この作品では、〈火の中に木の精神の存在を認めている、小鳥〉が描かれています。
実は木は小鳥と別れた後、木こりに切られてしまい、谷の方へ持っていかれてしまったのです。そこで小鳥は様々なものから木の行方を聞いて、探しはじめます。そうする中で、小鳥は木が最終的にマッチ棒になって燃やされた事を知るのでした。ですが、それでも小鳥はランプの火をじっと見つめて、去年に木に歌ったうたを歌いました。この時、「火はゆらゆらとゆらめいて、こころからよろこんでいるようにみえました。」
こうした小鳥の一連の行動と上記の括弧書きから、小鳥はかつての木の精神の存在を火の中に認めている、ということが言えます。
そもそも小鳥は木の行方を知る中で、それがどのような形に成り果てようとも決して探すことをやめることはありませんでした。それは、小鳥が素朴ながらも物質がどのように変化し消滅しようとも、精神のあり方は同じであるということを信じているからに他なりません。だからこそ小鳥は、木が物質的には消滅し、火となってもその中に木の精神の存在を認めることが出来たのです。
そして私達の方でも、この小鳥と同じように物質は滅んでいても、精神の存在を別に認めている時があります。例えば墓参りなどは良い例でしょう。たとえ物質としては骨だけになっていたとしても、死後の者の魂が墓の中に眠っていると考えるからこそ、私達は毎年お盆の時期には墓参りをしているのではありませんか。そしてこうした習慣、価値観でものごとを見ている私達だからこそ、小鳥が火に向かって歌っている姿に心を暖かくせずにはいられないのです。
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