一年に一回の学芸会の時期が近づいてきた頃、ある学級の少年少女たちは先生を希望に満ちた目で見るようになっていきます。というのも、彼、彼女らはそこで発表する対話劇において、自分の配役が気になって仕方がないのです。最も、女性の主役の方は才色兼備の「ツル」であろうということは、彼らの共通した意見でした。しかし男性の主役たる樵夫(きこり)の約において、彼らの頭の中では鋭い感性と自信に満ち溢れた「杏平」と、裕福な家庭に育った「全次郎」の2つの名前が浮かび上がりました。そしてその一方の杏兵の方では、自分が主役に選ばれる事を信じて疑わない様子。何故なら、彼はこれまで自分の期待が裏切られた事が一切なく、そのような想像をする事が不可能だったからです。
ところがそんな杏兵も同じ学級の少年達と同様に、「ある変化」を感じ取り、心を大きく揺れ動かされていくことになるのです。その変化とは一体どのようなものなのでしょうか。
この作品では、〈性という、自分たちにとって未知のものに対して、その心を大きく揺らす少年少女達の姿〉が描かれています。
あらすじにもある通り、これまで自分の期待が裏切られたことがない事から強い自信をもっていた杏平は、「ある変化」を感性的に感じ取り、その心を大きく揺れ動かすことになります。
その日の放課後、彼は「美しくない、現実的な空想」によってツルを描きはじめます。またそれだけでは飽きたらず、草の中から梅の実を手に取り、その種を割って、その卑猥な妄想を膨らませていったのです。この描写から、彼自身が性に対して興味を持ちはじめたことが理解できます。そしてその性への興味が彼の心を大きく揺れ動かしていったのです。というのも、彼ら少年少女にとって、性というものが全く未知のものであり、現時点ではその大きさを計る術もありません。ですが、どうしてもそれを知りたい杏平は想像を膨らませるよりほかなく、また自信のその想像を大きさを全身で受け止めたいという思いから、ツルの名を連呼したり、力いっぱい走りだしたのです。
ですが、そうして自分なりに性の大きさを計り満足はしたものの、やはり杏兵にはそれがどういうものなのか理解できません。そしてそうして理解しそこねた事から、これまで失敗もうまくいかなかったこともない彼は、少しずつ不安を感じはじめていき、やがては彼の自信にも影響を及ぼしていきました。だからこそ彼は他の少年達と木に登って、登った高さを競い合った後、「杏平は日頃の優越感が確かめられたことを感じないわけにはいかなかつた。」と、その確かな自信と実力をわざわざ再確認しなければならなかったのです。
2012年10月30日火曜日
2012年10月28日日曜日
黒猫(修正版)ーエドガー・アラン・ポー
物語は、明日斬首刑となる『私」が、何故首をはねられることとなったのか、という経緯を遺書として書かれる事で展開していきます。そしてその遺書は、彼はこの事件を何故自分が引き起こしたのか、自分でも分からないから論理的(※1)に解いて欲しい、という願いを書いた上ではじまっているのです。
子供の頃から大人しく、動物好きだった「私」は、成人してから、自身の奥さんとともに実に様々な動物を飼っていました。中でも黒い大きな猫は「私」から特に気に入られており、「プルートゥ」と呼ばれ親しまれていました。
ところがその「プルートゥ」と親交を深めていった頃、「私」は酒乱して、あれほど可愛がっていた動物を虐待していくようになっていきました。「プルートゥ」もその例外ではありません。はじめはそうした心遣いもありましたが、次第にそれすら失っていったのです。
そしてある時、「私」はひょんな事がきっかけで例の癇癪を起こして、なんと「プルートゥ」の目をえぐりとってしまいます。この時、「私」はひどく後悔しましたが、「天邪鬼の心持ち」(※2)の為に、再び「プルートゥ」を虐待しはじめ、遂には涙を流しながらも猫の首を吊って殺してしまいます。
その後、彼の家は原因不明の火事で焼けてしまいますが、焼けた壁から「私」は巨大な猫の焼痕を発見します。それは「私」に恐怖と混乱をもたらしました。しかし時間が経つにつれて、「私」は「プルートゥ」を殺してしまったことに対して、後悔しはじめ、似たような猫を探し求めはじめます。やがて「私」は「プルートゥ」と似た猫を見つめ、家で飼う事にしたものの、どういう訳か、その猫に恐怖を感じはじめます。そして恐怖は、猫の首筋から自分がつけた縄の痕を発見したことで怒りへと変わり、「私」は再び猫に手をあげ、それを庇った奥さんを殺してしまいました。
こうして殺人を犯した彼は、死体を家の壁に塗りこんで隠しましたが、警官が彼の家を捜索しにきた時、「私」は一つの、恐ろしい声(※3)を壁から聞いた為に動揺し、犯行がばれて、斬首刑を待つ身となっていったのです。
この作品では、〈後悔の念が強いあまり、かえって自らの異常性を認めなければならなかった、ある男〉が描かれています。
あらすじにもある通り、「私」は遺書の冒頭で、自分が何故あのような犯行に及んでしまったのか、何故このような運命を辿ってしまったのか、是非解いてもらいたいという願いを書いていました。今回はそんな「私」の思いに答える形で、その謎を解き明かしていきたいと思います。
そもそもこの彼の疑問というものは、あれ程やさしく、動物が好きであった自分が、何故動物を虐待し、殺人を犯し斬首刑にならなければならなかったのか、というところにあります。そして、彼はどうやらその原因を「天邪鬼の心持ち」なのではないか、というところまではつきとめているようですが、具体的にそれがどのようなものなのかがわからない様子。では、この「天邪鬼の心持ち」とは一体どのようなものなのでしょうか。
そもそもこの心持ちが起こったのは、彼が「プルートゥ」の目をえぐってしまった後に感じはじめます。その直前までは、彼は後悔していた訳ですが、その後、どういうわけか、してはいけないからする、「プルートゥ」が何もいていないから殺す、といった、通常とは逆の発想の展開をしていくようになっていきました。つまり彼の異常性は、彼が後悔したところからはじまっている、ということになります。では何故彼は後悔しているにも拘わらず、そのような恐ろしい考えと行動をとるようになってしまったのか。それは、その彼の後悔というものが、あまりにも大きかったからに他なりません。つまり、彼は強く後悔しているからこそ、彼が「プルートゥ」にやってしまった異常な行動が、深い傷として見えてしまっているのです。そしてその傷は、これまで可愛がっていたにも拘わらず、彼自身が片目をくりぬいてしまった「プルートゥ」を見る度に、嘗ての優しかった自分と、異常な行動をとってしまった自分とを頭の中で比較することで、より深くなっていきます。やがて彼は、こうして現在の自分と過去の自分とを比較していく中で、その傷がどのようにしても消えないものだと悟ると、最早過去の自分には戻れない事を理解し、残虐で異常な自分というものを認めていかなければならなかったのです。こうようにして、彼は理性の上で自分の異常性を認めて、そうした自分を想像し、つくりあげていきました。ですから彼は理性の上では、「プルートゥ」を殺す際に涙を流しながらも、ここで殺すことをやめても嘗ての自分には戻れないという思いから、留まることはできなかったのです。
また、こうしてひとつの謎が解けると、私達が考えていたであろう他の謎も次々と解けていくはずです。焼けた家の壁から猫の焼痕が残っていた、奥さんを埋めた壁から奇妙な声を聞いた等怪奇現象は、彼の後悔の強さからきているものでしょうし、黒い猫を飼いはじめた途端に再び異常な彼が現れたのは、それまで薄れていた、嘗ての自分には戻れない、だから残虐になる他ないという思いが、黒い猫を見る度に再び強くなっていったのでしょう。そして異常な彼が再び現れる過程の中で、黒い猫を恐れていたのは、そうした自分自身を垣間見るのが、理性の上で恐ろしかったからに他なりません。
まさにこの悲劇は、彼の後悔というものがそれ程までに強すぎたことが裏目にでてしまっていたことから起こっているのです。
※注釈
1・――多くの人々には恐ろしいというよりも怪奇(バロック)なものに見えるであろう。今後、あるいは、誰か知者があらわれてきて、私の幻想を単なる平凡なことにしてしまうかもしれぬ。――誰か私などよりももっと冷静な、もっと論理的な、もっとずっと興奮しやすくない知性人が、私が畏怖をもって述べる事がらのなかに、ごく自然な原因結果の普通の連続以上のものを認めないようになるであろう。
2・この心持を哲学は少しも認めてはいない。けれども、私は、自分の魂が生きているということと同じくらいに、天邪鬼が人間の心の原始的な衝動の一つ――人の性格に命令する、分つことのできない本源的な性能もしくは感情の一つ――であるということを確信している。してはいけないという、ただそれだけの理由で、自分が邪悪な、あるいは愚かな行為をしていることに、人はどんなにかしばしば気づいたことであろう。人は、掟を、単にそれが掟で あると知っているだけのために、その最善の判断に逆らってまでも、その掟を破ろうとする永続的な性向を、持っていはしないだろうか? この天邪鬼の心持が いま言ったように、私の最後の破滅を来たしたのであった。なんの罪もない動物に対して自分の加えた傷害をなおもつづけさせ、とうとう仕遂げさせるように私 をせっついたのは、魂の自らを苦しめようとする――それ自身の本性に暴虐を加えようとする――悪のためにのみ悪をしようとする、この不可解な切望であったのだ。ある朝、冷然と、私は猫の首に輪索をはめて、一本の木の枝につるした。――眼から涙を流しながら、心に痛切な悔恨を感じながら、つるした。――その猫が私を慕っていたということを知っていればこそ、猫が私を怒らせるようなことはなに一つしなかったということを感じていればこそ、つるしたのだ。――そうすれば自分は罪を犯すのだ、――自分の不滅の魂をいとも慈悲ぶかく、いとも畏るべき神の無限の慈悲の及ばない彼方へ置く――もしそういうことがありうるなら――ほどにも危うくするような極悪罪を犯すのだ、ということを知っていればこそ、つるしたのだった。
3・私の打った音の反響が鎮まるか鎮まらぬかに、その墓のなかから一つの声が私に答えたのであった! ――初めは、子供の啜り泣きのように、なにかで包まれたような、きれぎれな叫び声であったが、それから急に高まって、まったく異様な、人間のものではない、一つの長い、高い、連続した金切声となり、――地獄に墜ちてもだえ苦しむ者と、地獄に墜して喜ぶ悪魔との咽喉から一緒になって、ただ地獄からだけ聞えてくるものと思われるような、なかば恐怖の、なかば勝利の、号泣――慟哭するような悲鳴――となった。
子供の頃から大人しく、動物好きだった「私」は、成人してから、自身の奥さんとともに実に様々な動物を飼っていました。中でも黒い大きな猫は「私」から特に気に入られており、「プルートゥ」と呼ばれ親しまれていました。
ところがその「プルートゥ」と親交を深めていった頃、「私」は酒乱して、あれほど可愛がっていた動物を虐待していくようになっていきました。「プルートゥ」もその例外ではありません。はじめはそうした心遣いもありましたが、次第にそれすら失っていったのです。
そしてある時、「私」はひょんな事がきっかけで例の癇癪を起こして、なんと「プルートゥ」の目をえぐりとってしまいます。この時、「私」はひどく後悔しましたが、「天邪鬼の心持ち」(※2)の為に、再び「プルートゥ」を虐待しはじめ、遂には涙を流しながらも猫の首を吊って殺してしまいます。
その後、彼の家は原因不明の火事で焼けてしまいますが、焼けた壁から「私」は巨大な猫の焼痕を発見します。それは「私」に恐怖と混乱をもたらしました。しかし時間が経つにつれて、「私」は「プルートゥ」を殺してしまったことに対して、後悔しはじめ、似たような猫を探し求めはじめます。やがて「私」は「プルートゥ」と似た猫を見つめ、家で飼う事にしたものの、どういう訳か、その猫に恐怖を感じはじめます。そして恐怖は、猫の首筋から自分がつけた縄の痕を発見したことで怒りへと変わり、「私」は再び猫に手をあげ、それを庇った奥さんを殺してしまいました。
こうして殺人を犯した彼は、死体を家の壁に塗りこんで隠しましたが、警官が彼の家を捜索しにきた時、「私」は一つの、恐ろしい声(※3)を壁から聞いた為に動揺し、犯行がばれて、斬首刑を待つ身となっていったのです。
この作品では、〈後悔の念が強いあまり、かえって自らの異常性を認めなければならなかった、ある男〉が描かれています。
あらすじにもある通り、「私」は遺書の冒頭で、自分が何故あのような犯行に及んでしまったのか、何故このような運命を辿ってしまったのか、是非解いてもらいたいという願いを書いていました。今回はそんな「私」の思いに答える形で、その謎を解き明かしていきたいと思います。
そもそもこの彼の疑問というものは、あれ程やさしく、動物が好きであった自分が、何故動物を虐待し、殺人を犯し斬首刑にならなければならなかったのか、というところにあります。そして、彼はどうやらその原因を「天邪鬼の心持ち」なのではないか、というところまではつきとめているようですが、具体的にそれがどのようなものなのかがわからない様子。では、この「天邪鬼の心持ち」とは一体どのようなものなのでしょうか。
そもそもこの心持ちが起こったのは、彼が「プルートゥ」の目をえぐってしまった後に感じはじめます。その直前までは、彼は後悔していた訳ですが、その後、どういうわけか、してはいけないからする、「プルートゥ」が何もいていないから殺す、といった、通常とは逆の発想の展開をしていくようになっていきました。つまり彼の異常性は、彼が後悔したところからはじまっている、ということになります。では何故彼は後悔しているにも拘わらず、そのような恐ろしい考えと行動をとるようになってしまったのか。それは、その彼の後悔というものが、あまりにも大きかったからに他なりません。つまり、彼は強く後悔しているからこそ、彼が「プルートゥ」にやってしまった異常な行動が、深い傷として見えてしまっているのです。そしてその傷は、これまで可愛がっていたにも拘わらず、彼自身が片目をくりぬいてしまった「プルートゥ」を見る度に、嘗ての優しかった自分と、異常な行動をとってしまった自分とを頭の中で比較することで、より深くなっていきます。やがて彼は、こうして現在の自分と過去の自分とを比較していく中で、その傷がどのようにしても消えないものだと悟ると、最早過去の自分には戻れない事を理解し、残虐で異常な自分というものを認めていかなければならなかったのです。こうようにして、彼は理性の上で自分の異常性を認めて、そうした自分を想像し、つくりあげていきました。ですから彼は理性の上では、「プルートゥ」を殺す際に涙を流しながらも、ここで殺すことをやめても嘗ての自分には戻れないという思いから、留まることはできなかったのです。
また、こうしてひとつの謎が解けると、私達が考えていたであろう他の謎も次々と解けていくはずです。焼けた家の壁から猫の焼痕が残っていた、奥さんを埋めた壁から奇妙な声を聞いた等怪奇現象は、彼の後悔の強さからきているものでしょうし、黒い猫を飼いはじめた途端に再び異常な彼が現れたのは、それまで薄れていた、嘗ての自分には戻れない、だから残虐になる他ないという思いが、黒い猫を見る度に再び強くなっていったのでしょう。そして異常な彼が再び現れる過程の中で、黒い猫を恐れていたのは、そうした自分自身を垣間見るのが、理性の上で恐ろしかったからに他なりません。
まさにこの悲劇は、彼の後悔というものがそれ程までに強すぎたことが裏目にでてしまっていたことから起こっているのです。
※注釈
1・――多くの人々には恐ろしいというよりも怪奇(バロック)なものに見えるであろう。今後、あるいは、誰か知者があらわれてきて、私の幻想を単なる平凡なことにしてしまうかもしれぬ。――誰か私などよりももっと冷静な、もっと論理的な、もっとずっと興奮しやすくない知性人が、私が畏怖をもって述べる事がらのなかに、ごく自然な原因結果の普通の連続以上のものを認めないようになるであろう。
2・この心持を哲学は少しも認めてはいない。けれども、私は、自分の魂が生きているということと同じくらいに、天邪鬼が人間の心の原始的な衝動の一つ――人の性格に命令する、分つことのできない本源的な性能もしくは感情の一つ――であるということを確信している。してはいけないという、ただそれだけの理由で、自分が邪悪な、あるいは愚かな行為をしていることに、人はどんなにかしばしば気づいたことであろう。人は、掟を、単にそれが掟で あると知っているだけのために、その最善の判断に逆らってまでも、その掟を破ろうとする永続的な性向を、持っていはしないだろうか? この天邪鬼の心持が いま言ったように、私の最後の破滅を来たしたのであった。なんの罪もない動物に対して自分の加えた傷害をなおもつづけさせ、とうとう仕遂げさせるように私 をせっついたのは、魂の自らを苦しめようとする――それ自身の本性に暴虐を加えようとする――悪のためにのみ悪をしようとする、この不可解な切望であったのだ。ある朝、冷然と、私は猫の首に輪索をはめて、一本の木の枝につるした。――眼から涙を流しながら、心に痛切な悔恨を感じながら、つるした。――その猫が私を慕っていたということを知っていればこそ、猫が私を怒らせるようなことはなに一つしなかったということを感じていればこそ、つるしたのだ。――そうすれば自分は罪を犯すのだ、――自分の不滅の魂をいとも慈悲ぶかく、いとも畏るべき神の無限の慈悲の及ばない彼方へ置く――もしそういうことがありうるなら――ほどにも危うくするような極悪罪を犯すのだ、ということを知っていればこそ、つるしたのだった。
3・私の打った音の反響が鎮まるか鎮まらぬかに、その墓のなかから一つの声が私に答えたのであった! ――初めは、子供の啜り泣きのように、なにかで包まれたような、きれぎれな叫び声であったが、それから急に高まって、まったく異様な、人間のものではない、一つの長い、高い、連続した金切声となり、――地獄に墜ちてもだえ苦しむ者と、地獄に墜して喜ぶ悪魔との咽喉から一緒になって、ただ地獄からだけ聞えてくるものと思われるような、なかば恐怖の、なかば勝利の、号泣――慟哭するような悲鳴――となった。
2012年10月21日日曜日
黒猫ーエドガー・アラン・ポー
「私」はもともと大人しく情け深い性質で、動物が大変好きでした。その為、鳥類や金魚や兎や「黒い猫」等を飼っていました。特に最後に挙げた獣は非常に大きく美しく利口であり、「私」の一番のお気に入りでした。ですが彼はいつしか、酒乱の為に自分の奥さんはおろか、可愛がっていた動物、そして自身のお気に入りだったはずの「黒い猫」にまで手を出すようになっていってしまいます。
そしてある時、とうとう彼はあるひょんな事をきっかけに憤怒(ふんぬ)し、「黒猫」の目玉をくり抜いてしまいます。しかしその時の興奮がおさまり我にかえった彼は、自分のしたことに対して後悔を感じはじめました。ところがやがてその後悔は消え去り、彼は再び暴力をふるいはじめ、遂には「黒猫」を殺してしまいます。
こうして「黒猫」を殺した後、彼は再び後悔の念に襲われる事になります。そして次第にその感情の強さ故に、自然と同じような猫を探し求めるようになっていきました。そんなある時、彼は酒場で自身が嘗て殺した猫と瓜二つのものに遭遇します。その猫と出会った瞬間、彼は迷わず持ち帰り、家で飼うことにしました。ですが、やはり彼の動物への虐待の習慣は抜けきっっておらず、嘗て「黒猫」を殺した時と同じ感情をこの猫に感じはじめていきます。しかし猫を殺した時の後悔がその時は強かった為、彼は猫に手をあげる事を我慢することにしました。
ですが、次第にそうした感情は強くなっていくにつれて、彼は猫に対してどういうわけか恐怖をも感じはじめ、とうとう猫を庇った奥さんと猫自身を殺して家の壁に塗りこんでしまうのでした。
そしてある時、彼の家に警官が来て、家宅捜索が行われました。ですが怪しいものは一切出て来ません。これに気を良くした彼は、警官たちの前で、「この壁はがんじょうにこしらえてありますよ。」と言ってわざと壁を叩いて見せました。すると、彼はどこからともなくあの忌々しい「黒猫」の声を聞き、慄いてしまいます。その様子を見ていた警官たちはすぐに壁を崩し、死体を発見したのでした。
この作品では、〈後悔の念が強いあまり、かえってそれ以上の失敗をしなければならなかった、ある男〉が描かれています。
この作品を一読した後、多くの読者は「何故主人公はあれ程までに猫を殺した事を後悔していたにも拘わらず、それ以上の失敗をしなければならなかったのか」という大きな疑問を感じるのではないでしょうか。その理由を考えるにあたって、私は彼の感情の揺れ動きに着眼しました。というのも、彼は猫と関わっている時、いない時に拘わらず、恐らく酒乱し猫を傷つけた時点から、彼の精神は極めて不安定になっていき、そこが螺旋階段を転げ落ちるように、転落しなければならなかった要因になっているのではないかと考えたからです。
そこでここでは順を追って、彼の行動と感情を軸に、何故彼が猫を殺さなければならなかったのかを見ていきましょう。そもそも彼は酒乱の為に、猫自身に虐待するようになっていきました。ですが、この時はまだ猫の中には彼の怒りをかう要素は全くなく、単なるとばっちりに過ぎなかった、と言って良いでしょう。そして次第に虐待はエスカレートしていき、遂には「黒猫」の目玉をペンナイフでくり抜いしてしまいます。そこから彼は「黒猫」に対して、後悔の念を感じはじめます。ところがそうして後悔を感じていくにつれて、その後悔はやがて怒りへと転化していきます。これはちょうど、私達が昔の失敗を友人達に掘り返される心情に似ているところがあります。幾ら、その事を後悔しているとは言え、その友人が第3者か当人であったかに拘わらず、数度、数十度と言われれば、怒りがわいてくるものです。この作品の主人公もそれと同じで、直接的に掘り返されずとも、「黒猫」を見る度に、嘗ての恐ろしい自分を思い出し、いつしかしつこく責めたてられているような心情になっていったのです。やがて、ある時点で彼のその怒りは頂点に達し、「黒猫」を殺してしまったのです。
ですが、再び同じ失敗をしてしまった彼は、再び後悔の念にとらわれていったのです。感の鋭い方はもうお分かりでしょう。彼はこうして、自身の心の中で後悔と怒りとを交互に感じていき、しどろもどろになっていったのです。ですが、ただ同じ繰り返しを心の中でしていたわけではありません。1度目の失敗と2度目の失敗とでは、後者の方が罪がより大きくなっているわけですから、後悔の念もより大きくなっており、それだけ猫を見た時に感じる気持ち(自分で自分を責める気持ち)も大きくなっていったのです。すると、今度はその後悔の念が大きすぎるあまり、その怒りに加えて、恐怖を感じていくようになっていきました。こうして「黒猫」は彼の心の中で、彼の存在を脅かす、まさに魔物と化していったのです。だからこそ、彼は是が非でもその魔物を再び退治して、自分の身を守る必要があったのでした。そしてそうした念の強さあまって、彼はなんの関係もない奥さんまで殺してしまったのです。ですが、いよいよ後悔と恐怖の念が強くなっていった彼は、壁を叩いた瞬間、つい自分がしてしまった事の恐ろしさを改めて感じてしまったのでしょう。その時、彼は自分の心の中の猫の像から、「黒猫」の声を聞いてしまい、つい慄いてしまい、つかまってしまったのです。
このようにして彼は、後悔と怒りと恐怖を複雑に感じていくにつれて、殺人という大罪を犯してしまったのです。
※余談
またこの作品の不気味さというものは、こうした彼自身の心情の変化の他に、著者自身の描写力からきています。というのも、この作品は主人公である「私」の一人称視点から物語られています。そして主人公は自分が殺人を犯し他人に見つかるまでの過程の中で、2匹目の「黒猫」に対して、1匹目の「黒猫」に自分がつけた痕が日に日に浮かび上がってくる、壁に埋めたはずの猫声を聞く、等の奇怪な現象に遭遇します。その描写はどれもリアリティがあり、恐ろしいながらも、つい目を休めてしまうことを忘れていくことでしょう。ですがもし一般の作家が同じ場面を書いたならば、「あたかも」、「まるで」など、それは主人公だけにしか見えていなかったのだ、という含みの言葉を用いて、作品自体のリアリティを削いでしまうことはないでしょうか。そして、もしそういった言葉を使わなかったとしても、ここまでリアリティある言い回しになっていたのでしょうか。
そう、こうした場面は作品の世界では起こっていないが、主人公の頭と「読者には」そう見えていなければならない。また、後に「あれは主人公の頭の中でしか起こっていないのだ」ということを「読者にだけは」理解させなければならないという、複雑な場面なのです。
こうした場面を描ききってしまい、私達にリアリティがあるけど、作品の中でこの描写が起こっているのではなく、主人公の頭の中で起こっているのだ、と理解できるのは、この著者の手腕がそれだけ確かな事への証明にもなっているのです。
そしてある時、とうとう彼はあるひょんな事をきっかけに憤怒(ふんぬ)し、「黒猫」の目玉をくり抜いてしまいます。しかしその時の興奮がおさまり我にかえった彼は、自分のしたことに対して後悔を感じはじめました。ところがやがてその後悔は消え去り、彼は再び暴力をふるいはじめ、遂には「黒猫」を殺してしまいます。
こうして「黒猫」を殺した後、彼は再び後悔の念に襲われる事になります。そして次第にその感情の強さ故に、自然と同じような猫を探し求めるようになっていきました。そんなある時、彼は酒場で自身が嘗て殺した猫と瓜二つのものに遭遇します。その猫と出会った瞬間、彼は迷わず持ち帰り、家で飼うことにしました。ですが、やはり彼の動物への虐待の習慣は抜けきっっておらず、嘗て「黒猫」を殺した時と同じ感情をこの猫に感じはじめていきます。しかし猫を殺した時の後悔がその時は強かった為、彼は猫に手をあげる事を我慢することにしました。
ですが、次第にそうした感情は強くなっていくにつれて、彼は猫に対してどういうわけか恐怖をも感じはじめ、とうとう猫を庇った奥さんと猫自身を殺して家の壁に塗りこんでしまうのでした。
そしてある時、彼の家に警官が来て、家宅捜索が行われました。ですが怪しいものは一切出て来ません。これに気を良くした彼は、警官たちの前で、「この壁はがんじょうにこしらえてありますよ。」と言ってわざと壁を叩いて見せました。すると、彼はどこからともなくあの忌々しい「黒猫」の声を聞き、慄いてしまいます。その様子を見ていた警官たちはすぐに壁を崩し、死体を発見したのでした。
この作品では、〈後悔の念が強いあまり、かえってそれ以上の失敗をしなければならなかった、ある男〉が描かれています。
この作品を一読した後、多くの読者は「何故主人公はあれ程までに猫を殺した事を後悔していたにも拘わらず、それ以上の失敗をしなければならなかったのか」という大きな疑問を感じるのではないでしょうか。その理由を考えるにあたって、私は彼の感情の揺れ動きに着眼しました。というのも、彼は猫と関わっている時、いない時に拘わらず、恐らく酒乱し猫を傷つけた時点から、彼の精神は極めて不安定になっていき、そこが螺旋階段を転げ落ちるように、転落しなければならなかった要因になっているのではないかと考えたからです。
そこでここでは順を追って、彼の行動と感情を軸に、何故彼が猫を殺さなければならなかったのかを見ていきましょう。そもそも彼は酒乱の為に、猫自身に虐待するようになっていきました。ですが、この時はまだ猫の中には彼の怒りをかう要素は全くなく、単なるとばっちりに過ぎなかった、と言って良いでしょう。そして次第に虐待はエスカレートしていき、遂には「黒猫」の目玉をペンナイフでくり抜いしてしまいます。そこから彼は「黒猫」に対して、後悔の念を感じはじめます。ところがそうして後悔を感じていくにつれて、その後悔はやがて怒りへと転化していきます。これはちょうど、私達が昔の失敗を友人達に掘り返される心情に似ているところがあります。幾ら、その事を後悔しているとは言え、その友人が第3者か当人であったかに拘わらず、数度、数十度と言われれば、怒りがわいてくるものです。この作品の主人公もそれと同じで、直接的に掘り返されずとも、「黒猫」を見る度に、嘗ての恐ろしい自分を思い出し、いつしかしつこく責めたてられているような心情になっていったのです。やがて、ある時点で彼のその怒りは頂点に達し、「黒猫」を殺してしまったのです。
ですが、再び同じ失敗をしてしまった彼は、再び後悔の念にとらわれていったのです。感の鋭い方はもうお分かりでしょう。彼はこうして、自身の心の中で後悔と怒りとを交互に感じていき、しどろもどろになっていったのです。ですが、ただ同じ繰り返しを心の中でしていたわけではありません。1度目の失敗と2度目の失敗とでは、後者の方が罪がより大きくなっているわけですから、後悔の念もより大きくなっており、それだけ猫を見た時に感じる気持ち(自分で自分を責める気持ち)も大きくなっていったのです。すると、今度はその後悔の念が大きすぎるあまり、その怒りに加えて、恐怖を感じていくようになっていきました。こうして「黒猫」は彼の心の中で、彼の存在を脅かす、まさに魔物と化していったのです。だからこそ、彼は是が非でもその魔物を再び退治して、自分の身を守る必要があったのでした。そしてそうした念の強さあまって、彼はなんの関係もない奥さんまで殺してしまったのです。ですが、いよいよ後悔と恐怖の念が強くなっていった彼は、壁を叩いた瞬間、つい自分がしてしまった事の恐ろしさを改めて感じてしまったのでしょう。その時、彼は自分の心の中の猫の像から、「黒猫」の声を聞いてしまい、つい慄いてしまい、つかまってしまったのです。
このようにして彼は、後悔と怒りと恐怖を複雑に感じていくにつれて、殺人という大罪を犯してしまったのです。
※余談
またこの作品の不気味さというものは、こうした彼自身の心情の変化の他に、著者自身の描写力からきています。というのも、この作品は主人公である「私」の一人称視点から物語られています。そして主人公は自分が殺人を犯し他人に見つかるまでの過程の中で、2匹目の「黒猫」に対して、1匹目の「黒猫」に自分がつけた痕が日に日に浮かび上がってくる、壁に埋めたはずの猫声を聞く、等の奇怪な現象に遭遇します。その描写はどれもリアリティがあり、恐ろしいながらも、つい目を休めてしまうことを忘れていくことでしょう。ですがもし一般の作家が同じ場面を書いたならば、「あたかも」、「まるで」など、それは主人公だけにしか見えていなかったのだ、という含みの言葉を用いて、作品自体のリアリティを削いでしまうことはないでしょうか。そして、もしそういった言葉を使わなかったとしても、ここまでリアリティある言い回しになっていたのでしょうか。
そう、こうした場面は作品の世界では起こっていないが、主人公の頭と「読者には」そう見えていなければならない。また、後に「あれは主人公の頭の中でしか起こっていないのだ」ということを「読者にだけは」理解させなければならないという、複雑な場面なのです。
こうした場面を描ききってしまい、私達にリアリティがあるけど、作品の中でこの描写が起こっているのではなく、主人公の頭の中で起こっているのだ、と理解できるのは、この著者の手腕がそれだけ確かな事への証明にもなっているのです。
2012年10月16日火曜日
落ちてゆく世界ー久坂葉子
喘息持ちで廃人同様の生活をしており、嘗ての財産で生活をしている元華族の父、そんな父よりも神様を崇拝してなんでも神様に拝む母、戦争中の無理がたたって肺結核を患い、世間とは別の世界で過ごすことを余儀なくされている兄、大人として成長していく中で、徐々にその変化を見せる弟。そして、そうした家族に囲まれながら、自分の人生を歩もうとする雪子。これらの人々は家族という関係にありながらも、それぞれがそれぞれの独立した世界観で生きていました。
ところがある時、父が自殺した事をきっかけに、雪子は今再び自身と家族との繋がりについて考えはじめていくのです。
この作品では、〈家族への独立心がある故に、かえって父の死によって、家族の繋がりを意識しなければならなかった、ある女性〉が描かれています。
雪子はもともと父とは他の家族同様、必要以上の関わりを持ってはいませんでした。ですが唯一趣味の面では、他の家族以上の関わりを持っていました。そんな彼女だからこそ父の自殺によって、今一度家族と自分のあり方について考えはじめたのです。
そもそも父にとって家族とは、生活の煩わしさを忘れるための憩いの場となるはずのものでした。しかし不幸な事に彼は子供達との接し方が分からず、子供達との距離はその成長につれて大きくなっていきます。そして母は母で、父よりも神様、と言った具合に信仰に身を委ねることで精一杯でした。
そんな父にとって雪子との趣味の共有は、彼と家族を繋ぎとめる数少ないもののひとつだったのでしょう。だからこそ彼は雪子に母にはないものを求めました。そして雪子自身も、そうした父の眼差しを思い出すと各々が独立して暮らしている今、父との小さな繋がりを感じずにはいられなくなっていきます。そしてその父との繋がりが、やがて彼女に他の家族との繋がりを考えさせていったのです。こうして彼女は、現在は表面的にはそれぞれ独立はしているものの、どこかしらで家族との繋がりがあることを否定できなくなっていき、嘗て自分の家が華族であったにも拘わらず没落していっていること、父の死を受け入れ背負う覚悟を自然と決意していったのです。
そしてこうした彼女の決意の裏には、彼女に家族への独立心があったからだということを忘れてはいけません。もしも彼女に独立心がなければ、彼女は父の自殺を嘆くばかりか、或いはそうした父の思いに飲み込まれていただけかもしれません。父を含めた家族と一定以上の距離があったからこそ、このような冷静な決断が下せたのです。
ところがある時、父が自殺した事をきっかけに、雪子は今再び自身と家族との繋がりについて考えはじめていくのです。
この作品では、〈家族への独立心がある故に、かえって父の死によって、家族の繋がりを意識しなければならなかった、ある女性〉が描かれています。
雪子はもともと父とは他の家族同様、必要以上の関わりを持ってはいませんでした。ですが唯一趣味の面では、他の家族以上の関わりを持っていました。そんな彼女だからこそ父の自殺によって、今一度家族と自分のあり方について考えはじめたのです。
そもそも父にとって家族とは、生活の煩わしさを忘れるための憩いの場となるはずのものでした。しかし不幸な事に彼は子供達との接し方が分からず、子供達との距離はその成長につれて大きくなっていきます。そして母は母で、父よりも神様、と言った具合に信仰に身を委ねることで精一杯でした。
そんな父にとって雪子との趣味の共有は、彼と家族を繋ぎとめる数少ないもののひとつだったのでしょう。だからこそ彼は雪子に母にはないものを求めました。そして雪子自身も、そうした父の眼差しを思い出すと各々が独立して暮らしている今、父との小さな繋がりを感じずにはいられなくなっていきます。そしてその父との繋がりが、やがて彼女に他の家族との繋がりを考えさせていったのです。こうして彼女は、現在は表面的にはそれぞれ独立はしているものの、どこかしらで家族との繋がりがあることを否定できなくなっていき、嘗て自分の家が華族であったにも拘わらず没落していっていること、父の死を受け入れ背負う覚悟を自然と決意していったのです。
そしてこうした彼女の決意の裏には、彼女に家族への独立心があったからだということを忘れてはいけません。もしも彼女に独立心がなければ、彼女は父の自殺を嘆くばかりか、或いはそうした父の思いに飲み込まれていただけかもしれません。父を含めた家族と一定以上の距離があったからこそ、このような冷静な決断が下せたのです。
2012年10月15日月曜日
イオーヌィチーアントン・チェーホフ
近頃S市の近くに引っ越してきたばかりの医師、ドミートリイ・イオーヌィチはトゥールキン家の主人、イヴァン・ペトローヴィチから彼の家に招かれていました。人々の話によるとトゥールキン家の人々は皆、芸術に関して一技一芸を持っており、S市では最も教養と才能のある家で是非伺わなければならないということだったので、イオーヌィチはその招待を受けることにします。そして彼はトゥールキン家の人々と交際していく中で、ピアノが堪能な娘のエカテリーナ・イヴァーノヴナに惹かれていくのでした。ですが音楽学校に進学しピアノで名声や成功、自由を掴むつもりでいた彼女自身は、彼と結婚すればそれが叶わないだろうと考え拒みます。
やがて彼の恋が破れて4年がたった頃、イオーヌィチはいよいよS市の人々に嫌気が差してきます。というのも、Sの人々は彼に比べて無学、無教養な人々ばかりでカルタとお酒遊びに没頭ばかりだったのです。ですから教養人の彼としてはS市の人々と馬が合わず、カルタ遊びとお金の収集を唯一の楽しみにしていました。
そんなある時、イオーヌィチはトゥールキン家からの招待状を受け受け取ることになります。そこには嘗ての最愛の人、エカテリーナの字もありました。実は彼女はその後音楽学校に入ったものの、夢破れて今は自身の家に帰ってきていたのです。彼は4年間の間に、トゥールキン家をたった2度しか訪れていなかった事もあり、迷ったものの、招待を受けることを決意していきました。果たして今度こそ彼の恋は成就するのでしょうか。
この作品では、〈俗人を嫌うあまり、かえってその俗人以上の俗人になってしまった、ある男〉が描かれています。
イオーヌィチの恋の行方に関してもの申す前に、もう一度彼とS市の人々との4年間の触れ合いについて考えてみましょう。彼はそもそもS市の人々の、無学で無教養なところを嫌っていました。そしてS市の人々の方も、イオーヌィチが教養あふれる人物である為に、彼とあまり話が弾まず、『高慢ちきなポーランド人』と評していくようになっていきました。こうしてS市の人々とイオーヌィチの間には、大きな壁が出来上がっていったのです。
しかしS市の人々を彼は嫌いつつも、その習慣を嫌うことはなく、自然とカルタ遊びに没頭し、芝居や音楽を遠ざける事を自分の生活に取りいれていきました。そう、彼はS市の人々の性質を嫌いながらも、そうした性質がこうした習慣の中で形成されていった事を理解していなかったのです。ですから彼自身もそうした習慣を通じて、徐々に俗人と化していきます。そして更に悪い事は、イオーヌィチのS市の人々に対する気持ちが彼の俗人化に拍車をかけてしまった、ということです。というのも、上記の性質から彼の立場としては、どうしてもS市の人々と一線を画す必要があります。そこで彼は自身の地位によって、人々との格差を広げるという考えに至ったのでしょう。そうして彼は自分とS市の人々区別することで、彼らとは違った俗人へとなり、S市民の人々は愚劣な俗人であるという図式をつくっていったのです。
そんなある時です。彼はトゥールキン一家から招待を受けたことで、エカテリーナとの再会を果たします。しかし俗人と化したイオーヌィチには、S市でも教養があるトゥールキン家も、最早彼らがS市民である以上、無教養な芸術家かぶれの家族にしか見えなかったのです。ですがエカテリーナにだけは彼の心を開きかけていました。というのも彼がそもそも俗人となったのは、教養なきS市民の中で暮らす孤独からきていました。そして芸術に関心を持ち、嘗てS市を離れる事を羨望していたエカテリーナは、彼にとって自身の俗人化を止め得る最後の砦のようなものだったのです。ですが彼女自身、夢が破れた為に、以前のような音楽への熱心さ、S市を離れる気持ち、そのどちらともが弱くなり失われつつあると知ると、彼は再び心を閉ざしていきます。この時、彼の中では彼女もまた、愚劣なS市民になってしまったのでしょう。
こうしてイオーヌィチはS市の人々という俗市民を嫌うあまり、彼ら以上の俗市民にならなければならなかったのです。
やがて彼の恋が破れて4年がたった頃、イオーヌィチはいよいよS市の人々に嫌気が差してきます。というのも、Sの人々は彼に比べて無学、無教養な人々ばかりでカルタとお酒遊びに没頭ばかりだったのです。ですから教養人の彼としてはS市の人々と馬が合わず、カルタ遊びとお金の収集を唯一の楽しみにしていました。
そんなある時、イオーヌィチはトゥールキン家からの招待状を受け受け取ることになります。そこには嘗ての最愛の人、エカテリーナの字もありました。実は彼女はその後音楽学校に入ったものの、夢破れて今は自身の家に帰ってきていたのです。彼は4年間の間に、トゥールキン家をたった2度しか訪れていなかった事もあり、迷ったものの、招待を受けることを決意していきました。果たして今度こそ彼の恋は成就するのでしょうか。
この作品では、〈俗人を嫌うあまり、かえってその俗人以上の俗人になってしまった、ある男〉が描かれています。
イオーヌィチの恋の行方に関してもの申す前に、もう一度彼とS市の人々との4年間の触れ合いについて考えてみましょう。彼はそもそもS市の人々の、無学で無教養なところを嫌っていました。そしてS市の人々の方も、イオーヌィチが教養あふれる人物である為に、彼とあまり話が弾まず、『高慢ちきなポーランド人』と評していくようになっていきました。こうしてS市の人々とイオーヌィチの間には、大きな壁が出来上がっていったのです。
しかしS市の人々を彼は嫌いつつも、その習慣を嫌うことはなく、自然とカルタ遊びに没頭し、芝居や音楽を遠ざける事を自分の生活に取りいれていきました。そう、彼はS市の人々の性質を嫌いながらも、そうした性質がこうした習慣の中で形成されていった事を理解していなかったのです。ですから彼自身もそうした習慣を通じて、徐々に俗人と化していきます。そして更に悪い事は、イオーヌィチのS市の人々に対する気持ちが彼の俗人化に拍車をかけてしまった、ということです。というのも、上記の性質から彼の立場としては、どうしてもS市の人々と一線を画す必要があります。そこで彼は自身の地位によって、人々との格差を広げるという考えに至ったのでしょう。そうして彼は自分とS市の人々区別することで、彼らとは違った俗人へとなり、S市民の人々は愚劣な俗人であるという図式をつくっていったのです。
そんなある時です。彼はトゥールキン一家から招待を受けたことで、エカテリーナとの再会を果たします。しかし俗人と化したイオーヌィチには、S市でも教養があるトゥールキン家も、最早彼らがS市民である以上、無教養な芸術家かぶれの家族にしか見えなかったのです。ですがエカテリーナにだけは彼の心を開きかけていました。というのも彼がそもそも俗人となったのは、教養なきS市民の中で暮らす孤独からきていました。そして芸術に関心を持ち、嘗てS市を離れる事を羨望していたエカテリーナは、彼にとって自身の俗人化を止め得る最後の砦のようなものだったのです。ですが彼女自身、夢が破れた為に、以前のような音楽への熱心さ、S市を離れる気持ち、そのどちらともが弱くなり失われつつあると知ると、彼は再び心を閉ざしていきます。この時、彼の中では彼女もまた、愚劣なS市民になってしまったのでしょう。
こうしてイオーヌィチはS市の人々という俗市民を嫌うあまり、彼ら以上の俗市民にならなければならなかったのです。
2012年10月14日日曜日
イオーヌィチーアントン・チェーホフ(未完成)
完成版は近日中に公開します。
近頃S市の近くに引っ越してきたばかりの医師、ドミートリイ・イオーヌィチはトゥールキン家の主人、イヴァン・ペトローヴィチから彼の家に招かれていました。人々の話によるとトゥールキン家の人々は皆、芸術に関して一技一芸を持っており、S市では最も教養と才能のある家で是非伺わなければならないということだったので、イオーヌィチはその招待を受けることにします。そして彼はトゥールキン家の人々と交際していく中で、ピアノが堪能な娘のエカテリーナ・イヴァーノヴナに惹かれていくのでした。ですが音楽学校に進学しピアノで名声や成功、自由を掴むつもりでいた彼女自身は、彼と結婚すればそれが叶わないだろうと考え拒みます。
やがて彼の恋が破れて4年がたった頃、イオーヌィチはいよいよS市の人々に嫌気が差してきます。というのも、Sの人々は彼に比べて無学、無教養な人々ばかりでカルタとお酒遊びに没頭ばかりだったのです。ですから教養人の彼としてはS市の人々と馬が合わず、カルタ遊びとお金の収集を唯一の楽しみにしていました。
そんなある時、イオーヌィチはトゥールキン家からの招待状を受け受け取ることになります。そこには嘗ての最愛の人、エカテリーナの字もありました。実は彼女はその後音楽学校に入ったものの、夢破れて今は自身の家に帰ってきていたのです。彼は4年間の間に、トゥールキン家をたった2度しか訪れていなかったので迷ったものの、招待を受けることを決意していきました。果たして今度は彼の恋は成就するのでしょうか。
この作品では、〈俗人を嫌うあまり、かえってその俗人以上の俗人になってしまった、ある男〉が描かれています。
近頃S市の近くに引っ越してきたばかりの医師、ドミートリイ・イオーヌィチはトゥールキン家の主人、イヴァン・ペトローヴィチから彼の家に招かれていました。人々の話によるとトゥールキン家の人々は皆、芸術に関して一技一芸を持っており、S市では最も教養と才能のある家で是非伺わなければならないということだったので、イオーヌィチはその招待を受けることにします。そして彼はトゥールキン家の人々と交際していく中で、ピアノが堪能な娘のエカテリーナ・イヴァーノヴナに惹かれていくのでした。ですが音楽学校に進学しピアノで名声や成功、自由を掴むつもりでいた彼女自身は、彼と結婚すればそれが叶わないだろうと考え拒みます。
やがて彼の恋が破れて4年がたった頃、イオーヌィチはいよいよS市の人々に嫌気が差してきます。というのも、Sの人々は彼に比べて無学、無教養な人々ばかりでカルタとお酒遊びに没頭ばかりだったのです。ですから教養人の彼としてはS市の人々と馬が合わず、カルタ遊びとお金の収集を唯一の楽しみにしていました。
そんなある時、イオーヌィチはトゥールキン家からの招待状を受け受け取ることになります。そこには嘗ての最愛の人、エカテリーナの字もありました。実は彼女はその後音楽学校に入ったものの、夢破れて今は自身の家に帰ってきていたのです。彼は4年間の間に、トゥールキン家をたった2度しか訪れていなかったので迷ったものの、招待を受けることを決意していきました。果たして今度は彼の恋は成就するのでしょうか。
この作品では、〈俗人を嫌うあまり、かえってその俗人以上の俗人になってしまった、ある男〉が描かれています。
2012年10月9日火曜日
青ひげーシャルル・ペロー
むかしむかし、町と田舎に大きな屋敷を構えた、大金持ちの男いました。ですが彼は運の悪いことに、恐ろしい青ひげを生やしているため、他の者から恐れられ中々結婚できません。
そこで青ひげは自分の屋敷の近くに住んでいる美しい娘を奥さんとして迎えようと、その親子と近所の知り合いの若い人々を大勢招いて、一週間自分の屋敷でもてなして機嫌をとることにしました。この青ひげの作戦は功を奏し、娘は青ひげと結婚することを決意していきます。
そうして、結婚して娘が彼の奥さんとなってひと月経ったある時、青ひげは6週間旅に出る事にしました。その際、彼は家の鍵を全て奥さんに預けます。そして彼女に、地下室の大廊下の、一番奥にある小部屋の鍵だけは決して使ってはならないと告げました。奥さんは、はじめはもし開けてしまったら何をされるのか分からないという青ひげへの恐ろしさから、その約束を守っていました。しかしその部屋がどうしても見たくなった彼女は、とうとうその部屋を開けてしまいます。中には5、6人の女の死体がありました。それを見て奥さんは恐怖し、すぐに扉を閉めます。
ですがやがて青ひげが帰ってきて、自分の奥さんが約束を破ったことがばれてしまいます。そして彼は怒り、奥さんを殺そうとしました。ですが運良く青ひげの屋敷に向かっていた兄達に彼女は助けられ、青ひげは殺されてしまいます。
こうして奥さんは青ひげの狂気から救われて、彼の財産は自分の姉たちに分けることにしました。
この作品では、〈身に余る好奇心は身を滅ぼしかねない〉ということが描かれています。
本来、私の評論というものは作品の中から著者の主張を読み取り、それを一般性として括弧の中に表現して、それを軸に論じていきます。ですがこの作品では既に、著者であるシャルル・ペロー本人が作品の末尾に自身で一般性を述べているので、それをもとに論じていきたいと思います。因みに本文の一般性は、「ものめずらしがり、それはいつでも心をひく、かるいたのしみですが、いちど、それがみたされると、もうすぐ後悔が、代ってやってきて、そのため高い代価を払わなくてはなりません。」というものです。そして著者の一般性をもとに作品を見ていくと、この作品は奥さんの、青ひげの秘密の部屋を覗きたいという好奇心が彼女自身の身を危険に晒したのだ、という事を描いていることになります。
ところで私は著者の一般性をもとに、新たに一般性を出しているわけですが、私は著者の一般性にはない、「身に余る」という言葉を用いています。というのも、この表現こそ、この作品の理解をより深いものにしてくれる言葉だと考えたからです。そしてこの表現を用いるに至ったのは、奥さんのある葛藤について注目したからです。その葛藤とは言うまでもなく、地下の部屋を開けるか開けまいかということに他なりません。もし彼女がここで踏みとどまっていれば、このような悲劇は起こらなかったでしょう。では、何故彼女は地下の部屋を開けてしまったのか。
ひとつは彼女に危機管理が欠けていたことにあります。例えば優秀なレーサー等はそうした能力に長けているものです。彼らは自分の走るコースを見た時に、このコースでこのカーブならばここまでのスピードなら曲がれるがそれ以上出すと危ないと判断することができます。そしてこの奥さんにも、青ひげと自分の心の距離をはかり、これぐらいのことであれば許してくれるという判断が、自分で下すことができていれば良かったことになります。
ですがこう考えると、世の中にははじめての宇宙飛行やはじめての世界一周など、我が身に有り余るだけのリクスを背負わなければ、成し得ない大成だってあるはずではないないか、という反駁があっても可笑しくはありません。しかしそうかと言って、果たして奥さんが青ひげの秘密を知ることが、彼女にとって、或いは他の人々にとってどれだけ必要なことだったのでしょうか。結果的に青ひげの殺人が分かり、それ以上の犠牲者が出る事を防いだものの、部屋を開けるまでの時点ではそれが分からなかった訳ですし、何よりも、奥さんは多少なりとも青ひげの残虐性を知っておきながら部屋を開けてしまったのです。ですから彼女は、自分の危機管理能力も足りなかった上に、リスク管理すらできていなかったことになります。
こうして奥さんは、自分の身に余る判断と行動をしてしまった為に、恐ろしい体験をしなければならなかったのです。
そこで青ひげは自分の屋敷の近くに住んでいる美しい娘を奥さんとして迎えようと、その親子と近所の知り合いの若い人々を大勢招いて、一週間自分の屋敷でもてなして機嫌をとることにしました。この青ひげの作戦は功を奏し、娘は青ひげと結婚することを決意していきます。
そうして、結婚して娘が彼の奥さんとなってひと月経ったある時、青ひげは6週間旅に出る事にしました。その際、彼は家の鍵を全て奥さんに預けます。そして彼女に、地下室の大廊下の、一番奥にある小部屋の鍵だけは決して使ってはならないと告げました。奥さんは、はじめはもし開けてしまったら何をされるのか分からないという青ひげへの恐ろしさから、その約束を守っていました。しかしその部屋がどうしても見たくなった彼女は、とうとうその部屋を開けてしまいます。中には5、6人の女の死体がありました。それを見て奥さんは恐怖し、すぐに扉を閉めます。
ですがやがて青ひげが帰ってきて、自分の奥さんが約束を破ったことがばれてしまいます。そして彼は怒り、奥さんを殺そうとしました。ですが運良く青ひげの屋敷に向かっていた兄達に彼女は助けられ、青ひげは殺されてしまいます。
こうして奥さんは青ひげの狂気から救われて、彼の財産は自分の姉たちに分けることにしました。
この作品では、〈身に余る好奇心は身を滅ぼしかねない〉ということが描かれています。
本来、私の評論というものは作品の中から著者の主張を読み取り、それを一般性として括弧の中に表現して、それを軸に論じていきます。ですがこの作品では既に、著者であるシャルル・ペロー本人が作品の末尾に自身で一般性を述べているので、それをもとに論じていきたいと思います。因みに本文の一般性は、「ものめずらしがり、それはいつでも心をひく、かるいたのしみですが、いちど、それがみたされると、もうすぐ後悔が、代ってやってきて、そのため高い代価を払わなくてはなりません。」というものです。そして著者の一般性をもとに作品を見ていくと、この作品は奥さんの、青ひげの秘密の部屋を覗きたいという好奇心が彼女自身の身を危険に晒したのだ、という事を描いていることになります。
ところで私は著者の一般性をもとに、新たに一般性を出しているわけですが、私は著者の一般性にはない、「身に余る」という言葉を用いています。というのも、この表現こそ、この作品の理解をより深いものにしてくれる言葉だと考えたからです。そしてこの表現を用いるに至ったのは、奥さんのある葛藤について注目したからです。その葛藤とは言うまでもなく、地下の部屋を開けるか開けまいかということに他なりません。もし彼女がここで踏みとどまっていれば、このような悲劇は起こらなかったでしょう。では、何故彼女は地下の部屋を開けてしまったのか。
ひとつは彼女に危機管理が欠けていたことにあります。例えば優秀なレーサー等はそうした能力に長けているものです。彼らは自分の走るコースを見た時に、このコースでこのカーブならばここまでのスピードなら曲がれるがそれ以上出すと危ないと判断することができます。そしてこの奥さんにも、青ひげと自分の心の距離をはかり、これぐらいのことであれば許してくれるという判断が、自分で下すことができていれば良かったことになります。
ですがこう考えると、世の中にははじめての宇宙飛行やはじめての世界一周など、我が身に有り余るだけのリクスを背負わなければ、成し得ない大成だってあるはずではないないか、という反駁があっても可笑しくはありません。しかしそうかと言って、果たして奥さんが青ひげの秘密を知ることが、彼女にとって、或いは他の人々にとってどれだけ必要なことだったのでしょうか。結果的に青ひげの殺人が分かり、それ以上の犠牲者が出る事を防いだものの、部屋を開けるまでの時点ではそれが分からなかった訳ですし、何よりも、奥さんは多少なりとも青ひげの残虐性を知っておきながら部屋を開けてしまったのです。ですから彼女は、自分の危機管理能力も足りなかった上に、リスク管理すらできていなかったことになります。
こうして奥さんは、自分の身に余る判断と行動をしてしまった為に、恐ろしい体験をしなければならなかったのです。
2012年10月7日日曜日
ヴィヨンの妻ー太宰治
俗人で破天荒な性質を持っている詩人、大谷は女遊びとお酒を好み、ある時そうした遊びのお金欲しさの為に自分がよく通っている料理店からお金を盗んでしまいました。そしてその現場を店の主人と奥さんに目撃されてしまい、家までおしかけられてしまいます。そこで大谷の妻である「私」は夫に変わってそのお店で働き、お金を返すことにしました。
退廃的で死を望む夫は日々女と酒に溺れ、自分の生を呪いながら生きています。その一方で「私」は他の女といる夫を見守りながら仕事に奮闘し、たとえお店のお客に汚されても生を肯定し、日々を過ごしてゆくのでした。
この作品では、〈生きていくことに価値を見いだせないあまり、かえって誰よりも自然に生きてゆくことができた、ある女性〉が描かれています。
この作品は、自分がこの世で生きることを呪いながらも死ぬに死ねず、生きている大谷と、その妻である「私」とを比較する形で描かれています。そこでここではそれぞれの生き方を比較ながら論じていくことにします。
はじめに大谷の方ですが、彼は死にたくて仕方がないが、へんな「怖い神様にたいなもの」が、死ぬことを引き止めているというのです。この「神様みたいなもの」が引き止めるという表現の中には、恐らく生きるということに何か絶対的な強制力、価値を認めているという含みがあるのでしょう。ですから彼は死ぬに死ねず、だらだらと生きるしかなったのです。
それでは一方の「私」はどうでしょうか。彼女は夫が他の女と一緒にいようが、夫の借金を肩代わりしようが、世の中の見方を変えるような事は一切ありません。また彼女は何かに対して喜怒哀楽する事はあっても、夫は妻以外の女といるべきではない、他人に迷惑をかけてはならない、生きなければらない、といった義務的な価値観を持っていないのです。この彼女の性質が読者たる私達に、「私」に対して奇妙かつ神秘的な印象を与えているところなのでしょう。
では、何故彼女は大谷のように、また私達のように義務的な価値観をもたないのでしょうか。価値とは何処にあるのでしょうか。そもそも価値とは人間以外が持ち得ない概念なのです。というのも、例えば蜘蛛は母親が殺されようが、自分の子供が殺されようが、悲しんだりはしません。それどころか種類によっては、生まれた瞬間に自分の母親を食べてしまうものだっているのです。またそうして育った蜘蛛もまた、他の動物に捕食、或いは自分も子供達に食べられてしまいます。自然界において、生と死というものは現象以上の価値を持たず、単純に生きるために殺し殺されていくのです。しかし動物たちよりも大きな社会で暮らしている私達にとって、それでは困ります。社会的な生き物である私達には、その大きさだけの価値が必要になってくるのです。もしなければ、誰もが必要であれば他人のものを盗み、邪魔であれば他者が他者を殺しといったように、社会が成り立たなくなっていきます。だからこそ、私達は大谷のように生きることに現象以上の価値を求めなければならないのです。
ですが「私」はそうではありません。彼女にとって大谷の借金を返済することも、生きることも全て現象でしかないのです。そういった意味では、彼女は人間の社会で生きながらも、自然的な考え方をしていると言っても過言ではないでしょう。ですから彼女は男に汚されたすぐ後でも、ただ「私たちは、生きていさえすればいいのよ」と言うことが出来たのです。
まさに生きることに必要以上の価値観を持っていない事が、かえって「私」に生きる強さを与えているのです。
退廃的で死を望む夫は日々女と酒に溺れ、自分の生を呪いながら生きています。その一方で「私」は他の女といる夫を見守りながら仕事に奮闘し、たとえお店のお客に汚されても生を肯定し、日々を過ごしてゆくのでした。
この作品では、〈生きていくことに価値を見いだせないあまり、かえって誰よりも自然に生きてゆくことができた、ある女性〉が描かれています。
この作品は、自分がこの世で生きることを呪いながらも死ぬに死ねず、生きている大谷と、その妻である「私」とを比較する形で描かれています。そこでここではそれぞれの生き方を比較ながら論じていくことにします。
はじめに大谷の方ですが、彼は死にたくて仕方がないが、へんな「怖い神様にたいなもの」が、死ぬことを引き止めているというのです。この「神様みたいなもの」が引き止めるという表現の中には、恐らく生きるということに何か絶対的な強制力、価値を認めているという含みがあるのでしょう。ですから彼は死ぬに死ねず、だらだらと生きるしかなったのです。
それでは一方の「私」はどうでしょうか。彼女は夫が他の女と一緒にいようが、夫の借金を肩代わりしようが、世の中の見方を変えるような事は一切ありません。また彼女は何かに対して喜怒哀楽する事はあっても、夫は妻以外の女といるべきではない、他人に迷惑をかけてはならない、生きなければらない、といった義務的な価値観を持っていないのです。この彼女の性質が読者たる私達に、「私」に対して奇妙かつ神秘的な印象を与えているところなのでしょう。
では、何故彼女は大谷のように、また私達のように義務的な価値観をもたないのでしょうか。価値とは何処にあるのでしょうか。そもそも価値とは人間以外が持ち得ない概念なのです。というのも、例えば蜘蛛は母親が殺されようが、自分の子供が殺されようが、悲しんだりはしません。それどころか種類によっては、生まれた瞬間に自分の母親を食べてしまうものだっているのです。またそうして育った蜘蛛もまた、他の動物に捕食、或いは自分も子供達に食べられてしまいます。自然界において、生と死というものは現象以上の価値を持たず、単純に生きるために殺し殺されていくのです。しかし動物たちよりも大きな社会で暮らしている私達にとって、それでは困ります。社会的な生き物である私達には、その大きさだけの価値が必要になってくるのです。もしなければ、誰もが必要であれば他人のものを盗み、邪魔であれば他者が他者を殺しといったように、社会が成り立たなくなっていきます。だからこそ、私達は大谷のように生きることに現象以上の価値を求めなければならないのです。
ですが「私」はそうではありません。彼女にとって大谷の借金を返済することも、生きることも全て現象でしかないのです。そういった意味では、彼女は人間の社会で生きながらも、自然的な考え方をしていると言っても過言ではないでしょう。ですから彼女は男に汚されたすぐ後でも、ただ「私たちは、生きていさえすればいいのよ」と言うことが出来たのです。
まさに生きることに必要以上の価値観を持っていない事が、かえって「私」に生きる強さを与えているのです。
2012年10月5日金曜日
和太郎さんと牛ー新美南吉(未完成)
お酒好きである牛ひきの和太郎さんは、年とった牛と彼のお母さんとで暮らしていました。そんな彼にはある悩みがありました。それは、彼にはお嫁さんと子供がいないということです。彼自身は自分の後を継ぐ子供が欲しいとは思っているものの、以前にお嫁さんをもらってうまくいかなかった経験から、それを諦めていました。
そんな和太郎さんに、ある時事件が起こります。彼は行きつけの茶屋でお酒を飲むことが好きで、飲んだ夜は牛の車の上にのって帰る事にしていました。しかしその日は牛もお酒を飲んでおり、茶屋を出た後なかなか家に帰り着きませんでした。一方そんな彼を心配したお母さんは、おまわりさんに相談して村の人々と共に彼を探す事にしました。彼と牛は果たしてちゃんと家に帰り着くことが出来るのでしょうか。
そんな和太郎さんに、ある時事件が起こります。彼は行きつけの茶屋でお酒を飲むことが好きで、飲んだ夜は牛の車の上にのって帰る事にしていました。しかしその日は牛もお酒を飲んでおり、茶屋を出た後なかなか家に帰り着きませんでした。一方そんな彼を心配したお母さんは、おまわりさんに相談して村の人々と共に彼を探す事にしました。彼と牛は果たしてちゃんと家に帰り着くことが出来るのでしょうか。
2012年10月2日火曜日
花をうめるー新美南吉
著者は子供の頃、ある遊びに没頭している時期がありました。その遊びとは、2人いれば出来る遊びで、1人が目を瞑り、もう1人が穴を掘ってそこに草花を埋め、硝子の破片で蓋をしてその上から土をかぶせます。そして隠し終わったら、目を瞑っていた者は目をあけて花を探す、というものでした。彼はこの隠された花にこそ、この遊びの魅力を感じていたようです。
そしてある時、著者はこの遊びを豆腐屋の林太郎(りんたろう)と織布工場のツルとで行っていました。やがて遊びも終わりかけた頃、最後に林太郎とツルが隠す役を、著者が探す役をすることになりました。ですが、いくら彼が探しても花の場所が分かりません。そしてツルもツルで、その場所を教えてはくれず、「そいじゃ明日さがしな」と言うだけでした。彼はツルの作品(花)を常々素晴らしいと評価していたことと、ツルへの好意の気持ちから彼女の言葉を採用し、明日も明後日も、暇さえあればたびたび行ってそこを探しました。そうしていくうちに、彼はその場所に魅力を感じていくようになっていきます。ですが、花は一向に見つかりません。
そんなある時、著者は花を探しているところを林太郎に目撃され、ツルはそもそも花を隠していなかった事を告げられます。その瞬間から、著者は花が隠されていた場所に何の魅力を感じなくなりました。
やがて月日は経ち、著者とツルの関係は恋仲にまで発展しましたが、彼自身は彼女の性格を知りひどく幻滅したといいます。またそれは、「ツルがかくしたようにみせかけたあの花についての事情と何か似てい」るというのです。これは一体どういうことでしょうか。
この作品では、〈ある一部の性質を拡大して、全体を見せているある女性の特性を見抜いた、著者の審美眼〉が描かれています。
あらすじにある通り、著者はツルが花を隠したように見せかけてその場所に魅力を持たせていた事と、ツルの性格を知りひどく幻滅した事について、ある共通点を見出しています。それは両者とも、故意かそうでないかは兎も角ツル自身が、著者が魅力を感じ得ないものにまである性質を拡大させて、人やものを演出していたということです。というのも、著者はツルがそこに花を隠したという嘘をつかなければ、当然そこに魅力を感じなかった事でしょう。そしてツルがこの遊びを得意だったという性質が更に、その場所に新たな付加価値をつけていた事を手伝っていた、という点も見逃してはなりません。
また彼はその遊びが得意な、繊細なツルを好いていました。恐らくこれもツル自身のそうした性質を著者の中のツルの像に押し広げていった事で、彼女の本来の性格を隠していたのでしょう。
そしてこうした性質はもともと人間、特に女性の性質として備わっている節があります。例えば女性は男性よりも「外見的な美」というものに熱心で、服や化粧で自分を可愛く、美しく、またかっこ良く演出することがあります。またそうした演出が、鑑賞者(つまり男性)に「内面的な付加価値」を与えているのです。つまり可愛い女性というものは、実際は気が強くても気が弱く見えることがありますし、美しい女性というものは、普段下品な言葉づかいをしていても、外見だけ見ればそうは見えないことがあります。そしてもし鑑賞者がそこに気づいた時、彼らは著者と同じように大きな幻滅を感じる事でしょう。そしてその差が大きければ大きい程、幻滅も大きいはずです。
作品の話に戻りますと、この著者もツルのつくる作品(花)を高く評価していたからこそ、その虚構がそれだけ彼に大きな失望を抱かせてしまった事は言うまでもありません。まさにツルの花を隠す事が得意だという利点が、かえって彼女の欠点を目立たせる結果となってしまったのです。
そしてある時、著者はこの遊びを豆腐屋の林太郎(りんたろう)と織布工場のツルとで行っていました。やがて遊びも終わりかけた頃、最後に林太郎とツルが隠す役を、著者が探す役をすることになりました。ですが、いくら彼が探しても花の場所が分かりません。そしてツルもツルで、その場所を教えてはくれず、「そいじゃ明日さがしな」と言うだけでした。彼はツルの作品(花)を常々素晴らしいと評価していたことと、ツルへの好意の気持ちから彼女の言葉を採用し、明日も明後日も、暇さえあればたびたび行ってそこを探しました。そうしていくうちに、彼はその場所に魅力を感じていくようになっていきます。ですが、花は一向に見つかりません。
そんなある時、著者は花を探しているところを林太郎に目撃され、ツルはそもそも花を隠していなかった事を告げられます。その瞬間から、著者は花が隠されていた場所に何の魅力を感じなくなりました。
やがて月日は経ち、著者とツルの関係は恋仲にまで発展しましたが、彼自身は彼女の性格を知りひどく幻滅したといいます。またそれは、「ツルがかくしたようにみせかけたあの花についての事情と何か似てい」るというのです。これは一体どういうことでしょうか。
この作品では、〈ある一部の性質を拡大して、全体を見せているある女性の特性を見抜いた、著者の審美眼〉が描かれています。
あらすじにある通り、著者はツルが花を隠したように見せかけてその場所に魅力を持たせていた事と、ツルの性格を知りひどく幻滅した事について、ある共通点を見出しています。それは両者とも、故意かそうでないかは兎も角ツル自身が、著者が魅力を感じ得ないものにまである性質を拡大させて、人やものを演出していたということです。というのも、著者はツルがそこに花を隠したという嘘をつかなければ、当然そこに魅力を感じなかった事でしょう。そしてツルがこの遊びを得意だったという性質が更に、その場所に新たな付加価値をつけていた事を手伝っていた、という点も見逃してはなりません。
また彼はその遊びが得意な、繊細なツルを好いていました。恐らくこれもツル自身のそうした性質を著者の中のツルの像に押し広げていった事で、彼女の本来の性格を隠していたのでしょう。
そしてこうした性質はもともと人間、特に女性の性質として備わっている節があります。例えば女性は男性よりも「外見的な美」というものに熱心で、服や化粧で自分を可愛く、美しく、またかっこ良く演出することがあります。またそうした演出が、鑑賞者(つまり男性)に「内面的な付加価値」を与えているのです。つまり可愛い女性というものは、実際は気が強くても気が弱く見えることがありますし、美しい女性というものは、普段下品な言葉づかいをしていても、外見だけ見ればそうは見えないことがあります。そしてもし鑑賞者がそこに気づいた時、彼らは著者と同じように大きな幻滅を感じる事でしょう。そしてその差が大きければ大きい程、幻滅も大きいはずです。
作品の話に戻りますと、この著者もツルのつくる作品(花)を高く評価していたからこそ、その虚構がそれだけ彼に大きな失望を抱かせてしまった事は言うまでもありません。まさにツルの花を隠す事が得意だという利点が、かえって彼女の欠点を目立たせる結果となってしまったのです。
登録:
投稿 (Atom)