町なかの公園に道化方の出て勤める小屋があって、そこにツァウォキイという破落戸が住んでいました。彼ははえらい喧嘩坊で、誰をでも相手に喧嘩をする。人を打つ。どうかすると小刀で衝く。窃盗をする。詐偽をする。強盗もするような、どうしよもない人物でした。ですが、そんな彼も自分の妻の事はその身を案じており、銭が一文もなくなった時などは、彼女がまたパンの皮を晩食にするかと思うと、気の毒にさえ思うというのです。しかしその一方で、ツァウォキイはそんな自分の気持を素直に表現することができず、逆に気持ちを隠そうとして、彼女に辛くあたってしまいます。そしてそんな彼は、やがて財産を全て失い、銭を稼ぐ術をも見いだせなくなった挙句、小刀を自分の胸に突き刺して死んでしまいます。
死後、彼は役人たちに緑色に塗った馬車に乗せられて、罪を浄火されるべく糺問所へと連れていかれます。そして、そこに連れてこられた人々は同時に、一日だけ娑婆に帰れる権利を与えられます。これをツァウォキイは、一度は拒否するも、徐々に自身の心が浄くなるにつれて、娑婆にいる自分の娘に会いたいという思いを強めていくのです。ですが、彼はやがてこの権利を行使するも、自らこのチャンスを台なしにしてしまいます。一体彼は何故、折角のチャンスを台なしにしてしまったのでしょうか。
この作品では、〈怒りでしか、自分の感情を表現出来なかった、ある破落戸〉が描かれています。
まず、上記にもあるように、ツァウォキイは娑婆で実の娘に会う機会を得ることができます。しかしいざ実の娘と対面し、「なんの御用ですか」と尋ねられ、上手く反応できず「わたしはねえ、いろんな面白い手品が出来るのですが。」と、誤魔化す事しか出来ませんでした。これに対し、娘は当然の事ながら、「手品なんざ見なくたってよございます。」と父をあしらってしまいます。そこで、ツァウォキイは怒りを顕にして右の拳を振り上げて、娘の白い、小さい手を打ってしまいます。こうして、彼は娘との折角の対面を失敗に終わらせてしまいます。ですが、これは完全な失敗と言えるのでしょか。というのも、父にぶたれたことに対して「ひどく打ったのに、痛くもなんともないのですもの。ちょうどそっと手をさすってくれたようでしたわ。真っ赤な、ごつごつした手でしたのに、脣が障ったようでしたわ。そうでなけりゃ心の臓が障ったようでしたわ。」と、あまりひどい事だとは思ってもいない様子。一体どういうことでしょうか。
さて、こうした怒りに関する複雑な感情は、現実を生きる私達にもしばしばあります。例えば、過去に父や母に怒られた事を思い出し、その時は分からず、苛立ち、悲しく思っていても、大人になるにつれてそれが有難いことだったと感じることはなかったでしょうか。私達がこのように思えるのは、こうした親の怒りの中に、私達に対する思いが含まれているからに他なりません。
そして、物語に登場するツァウォキイに関しても同じことが言えるのです。そもそも、彼が怒りを顕にした理由が、娘を思うあまり、辛くあたられた事にあるのですから。
こうした私達の感情は、私達が思っている以上に複雑で、その表現の仕方もそれと比例するように同じく複雑なものへとなっているのです。
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返信削除外の冷たい空気を吸って、心身ともに引き締めてください。