2011年12月13日火曜日

破落戸の昇天(修正版)

街中で道化方として生計を立てているツァウォツキイは、喧嘩っ早く、他人には暴力を振るい、窃盗や詐欺などもする、どうしようもない破落戸(ごろつき)でした。そんな彼は妻と二人暮しをしていましたが、夫である彼がこのような調子なので二人は非常に貧しい生活をしていました。そして彼は、自身の妻にそのような生活をさせていることに心苦しさすら感じていました。ですが、そういった事を彼女にうまく表現できず、どういうわけか彼女を怒鳴りつけてしまう始末。そして彼はそうした生活を自分の力でなんとか打破しようと、賭博に有り金を全てはたいてしまいます。しかし結局は負けてしまい、その絶望の挙句、自らの命を断ってしまいます。
その後、彼は死後の世界へと連れてこられ、そこで自らの命の浄火(極明るい、薔薇色の光線を体に当てて、悪の性質を抜き取る作業)を強制されます。またそれと同時に、彼はそこで役人から一日だけ娑婆に帰れる権利を得ることになります。はじめ彼はこの権利を拒みましたが、16年間の浄火の末、自ら「生きている間に見ることの出来なかった、自分の娘の姿を見たい」と申し出てきました。こうして彼は自身の娘と対面する機会を得ることが出来たのです。ですが、娘の方は当然父の存在など知る由もなく、全くの他人だと考え玄関の戸を閉めようとします。それに彼は怒りを顕にして、娘の手をはたいしてしまいます。そして、我に返った彼は恥ずかしい気持ちの儘、死後の世界へと帰り、やがて地獄へと送られてしまいます。
そして彼が地獄に送られている一方、娘は母にその出来事を話して聞かせました。その中で娘は、読者である私達が想定していなかった驚くべき感想を述べはじめます。それは一体どのようなものだったのでしょうか。
この作品では〈ある気持ちを隠すため、別の気持ちを相手に見せなければならなかった、ある男〉が描かれています。
まず、上記にある、父に手を打たれた娘の驚くべき感想とは、「ひどく打ったのに、痛くもなんともないのですもの。ちょうどそっと手をさすってくれたようでしたわ。」というものでした。では、彼女は父であるツァウォツキイの、一体どのような性質を感じ取り、このような感想をもったのでしょうか。
それを知るために、彼が妻を怒鳴っているシーンをもう一度確認してみましょう。この時、彼は何も妻が本当に憎いだけで怒鳴っていたわではありません。上記のあらすじにもあるように、彼は妻に苦しい生活をさせている事に対して、気の毒にすら感じています。ですが、彼はそのような気持ちを一切妻に見せようとはしませんでした。むしろ、それを隠そうとして彼女を怒鳴ったのです。そして、草葉の陰でひっそりと泣いている辺り、彼が妻に自分の気持を素直に表現しなかったのは、「もしも、妻に見せてしまったら、妻は自分に……」となんらかの形で彼女が彼に気を使うだろうと考えたからではないでしょうか。だからこそ、ツァウォツキイは妻に対して自身の怒りを持って接していかなければならなかったのです。
そして、こうしてツァウォツキイの気持ちをひとつひとつを読み取っていくと、彼の怒りという感情が、実に複雑である事が理解できます。すると、物語の終盤で娘の手を打った、彼の怒りには一体何が含まれていたのでしょうか。そこには、16年間娘を思い続けていた苦しさ、その娘にやっとの思いで出会えた嬉しさ、しかしその娘に戸を閉められる悲しさ。こうした娘への強い思いがそこには含まれているのです。ですが、彼は死者という現在の立場から、それを素直に表現することが出来なかったために、手を打つしかなかったのでしょう。また娘は娘でそうした彼の気持ちを受け取ったからこそ、ツァウォツキイに手を打たれた事に対して、あのような感想を持つことが出来たのです。
また、これらの事を踏まえた上で、作者が「小さい子供を持った寡婦がその子供を寐入らせたり、また老いて疲れた親を持った孝行者がその親を寝入らせたりするのにちょうどよい話」と、何故読者を限定するような事を冒頭で述べているのかが理解できるはずです。例えばあなたが子供だった頃、親に叱られた時、あなたは怒っているという表面だけを読取り、親がどうして自分を叱るのか、理解出来ずに泣いたことはないでしょうか。そんな時、この作品を予め読んでおり、人間のある気持ちというものは複雑なもので、そこには様々な気持ちが含まれれいる事を感性的ながらにも知っていれば、自分を叱る親に対する見方も違っていたのかもしれません。まさにこの作品は、親の気持ちを知る為に描かれたものだと言っても過言ではないでしょう。

1 件のコメント:

  1. バックリンクでコメントしました。
    あと半分です。

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