2011年12月19日月曜日

破落戸の昇天(修正版ー2)

破落戸(ごろつき)であるツァウォツキイは、妻と2人でとても貧しい生活をしていました。そんな彼は、自身が破落戸であるために妻に貧しい思いをさせている事に関して、日々心苦しさを感じていました。ところが、彼はそうした自分の気持ちを妻に素直に伝える事が出来ず、どういう訳か、それが罵声となって表れてしまいます。
ある時、彼はこうした現状を自分なりに解決しようと、賭博に持っていたお金をすべて使ってしまいます。その挙句にお金は全て騙し取られてしまい、途方に暮れた彼は自らの命を断ってしまいます。
その後、自殺を図ったツァウォツキイが辿り着いた場所は死後の世界でした。そこで彼は自分の中にある、悪の性質を取り除く光線を浴び続ける罰を課せられることとなります。同時に彼はそこで、一日だけ娑婆に帰り、やり残した事をやり遂げる権利を与えられたのです。彼はこの権利を一度は断ります。ですが、罰を与えられ続けた末、生きているうちに見れなかった自分の娘をこの目で見たいと思うようになり、やがて自らそう申し出てきました。こうしてツァウォツキイは、実の娘と対面するチャンスを得ることになります。しかし、肝心の娘は彼の事など知る由もなく、突然現れた見知らぬ訪問者に、彼女は玄関の戸を閉め拒絶しようとします。この娘の行動に彼は我を失い、怒りを顕にし、なんと彼女に手をあげてしまいます。そして、我に返った彼は恥ずかしい気持ちになりながら、もといた世界に帰り、やがてその行動が仇となり、地獄へと送られる事となったのです。
この作品では、〈表現の中に何か別のものが含まれている事は分かっているものの、それを上手く言葉で説明できない事への悩み〉が描かれています。
まず、上記のあらすじにもあるように結果として、ツァウォツキイは他人に優しくすることが出来ず、地獄へと送られてしまいました。ですが、彼自身全く妻や娘に対して、優しさそのものがなかった訳ではありません。事実、彼は貧しい生活をしている妻に対して、不憫にすら思っていたのですから。しかし、それをどう表していいのか分からず、それがどういう訳か罵声や手を打つ等の表現に変わっていったのです。そして、そんな複雑な彼の気持ちとは裏腹に、死後の世界の役人などの周囲の人々は彼のことを、「ツァウォツキイという破落戸は生きているうちは妻に罵声を浴びせ、死んでも尚娘に手をあげるどうしようもない下等な人間」とみなしていました。
ですが、一方で彼の気持ちを「ある程度」理解できた人々もいました。それは、彼に罵声や暴力をふるわれた、妻と娘に他なりません。娘はツァウォツキイに手をあげられながらも、その事に関して「ひどく打ったのに、痛くもなんともないのですもの。(中略)そうでなけりゃ心の臓が障ったようでしたわ。」と、奇妙な印象を持っているのです。そして、それを聞いた彼の妻も、声を震わせているあたり、その人物がツァウォツキイだと直感したのでしょう。まさに彼女たちに起こっているこれらの現象は、彼の気持ちを「ある程度」理解していたからだと考えて良いでしょう。そして、ここで「ある程度」と断らなければ、彼女たちが、暴力(表現)の中にツァウォツキイの彼女たちへの優しさがあった事は突き止めることはできていますが、その中身(何故ツァウォツキイが暴力的にならなければならなかったのか)を特定することが出来なかったからという一点に尽きます。だからこそ妻は、彼の葬式で彼が死んだことを周囲の人々にあれこれと言われても、反論は出来なかったのです。また、娘が手をあげられた事件が起こって以来、彼女たちはその事に関して閉口していましたが、この事に関しても、上記と同じ理由が当てはまります。つまり彼女たちは、表現の中身が特定できず、死人故聞くに聞けなかった為、結局本心が分からず口を紡ぐしかなかったのです。

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