2016年1月30日土曜日

悪友を売った悪友

 あれは確か僕が小学校中学年か高学年、の話だったように思う。昼休み、僕たちのクラスの男子の何人かは、学校の三階のトイレに集合した。当時、僕らの学校には暖房やストーブの類の電化製品は置いておらず、冷たい風の中で授業を受けていた。学校全体がそんな風であるから、当然トイレという場所はもっと寒い。しかし僕以外の悪友達は、これから行う悪事に目を輝かせていた。
「で、吸ってみてどんなんやったが?」
 ある者が好奇心満たさに聞いてきた。この時、彼らが何を話しているのか、察しの悪い僕は気づきもしなかった。が、何やら悪いことを企んでおり、悪事に巻き込まれようとしてることだけは分かった。そして一人がこう応えた。
「おう、最初はむせたけんど、吸いよったら段々慣れてきたちゃあ。意外とうまいぞ。」
 その口調は何処か弾んだところがあり、聞いてもいないことを次から次へと話した。僕は自分の身に何が起こるのか、徐々に明確になってくるに連れて逃げ出したい気持ちになった。
 なんでも彼は、父親が出かけている間に両親の部屋に入って、数本の煙草とライターをくすねてきたのだという。そして人気のない、松林のあたりまで移動してこっそりと吸ったそうだ。どうやらその時、彼は少年の時にしか体験し得ない、背伸びをした大人の魅力に取り憑かれたようである。そして今日、彼はその素晴らしい体験を皆で共有しようと、自分の小遣いをはたいて用意したという次第なのだ。
「ちょっと俺も吸いたいちや。吸わいてくれ。」
 一人のお調子者が我先にと煙草を強請りはじめた。持ってきた悪友は気前よく箱から一本取り出し、お調子者に渡してやった。そして慣れない手つきで火をつけようとした。ところがライターを着火し、煙草に近づけるまでは良かったのだが、先端が焦げるばかりで中々つかない。
「ちゃうちゃう!近づけて吸ってみい。そしたら着くき。」
 彼は煙草の先輩に言われるが儘に火をつけ、その煙を吸った。先端に日が点った。悪友共の目は輝いた。が、その刹那、彼らはどっと笑い出した。火がついたはいいものの、今度は煙に慣れておらず、むせだしたのである。吸った彼は右の指で器用に煙草を挟んで持ちながら、ゲホゲホとむせながら、顔を真赤にしていた。無論こうした場面では僕もしっかり笑った。ところが僕は随分と勝手な正確をしており、あれだけ一緒になって笑っていたにも拘らず、いざ自分の番になると、表情を強張らせて頑なに断った。
「えいちゃえいちゃ。僕はえいちゃ。」
「やれや、みんなやっちゅうきに。」
「そうぞそうぞ、ここまできたら一緒やちゃあ!!」
 やや脅迫めいた悪友の勧めも、僕はどうにか凌ごうとした。それ程までに、僕は煙草を吸いたくはなかった。否、性格に言えば、吸ってばれた時に、父に責められたくなかったのである。父は他人には何も言わなかったが、我が子にはめっぽう厳しい人であった。ひとつでも自分の教えに背こうものなら、劣化の如き怒りが僕に向けられる。弟などは畳に思いっきり投げ飛ばされ、僕などは鉄の定規が自分の頬をかすめた事すらある。それまでの事を思うと、もし僕が煙草を吸ったとして、それがバレるとどのような仕打ちが待っているのか分かりかねる。だから僕は友達にどう思われようとも、否、そのような事など考える余地もなく、頑なに吸わないと言い張った。そうして、こうした僕の様子に根負けしたのか、呆れ果てたのか、悪友たちは、その日に関しては諦めたのである。

 ところが次の日、僕は再び小学校に「喫煙所」へと呼び出された。そこには新たな悪友が加わっていた。そして煙草もライターも増えていた。昨日持ってきた悪友に触発されて、父親の机から、或いは下校して買ってきた者達がいたのである。そして彼らは、最初の人間がそうしたように、自慢する悪友を誘ってきて、勧めようとしているのだ。こうして彼らは自分たちの中にある、大人になるという優越感を満たそうとしているのである。
 一方の僕は、そんな彼らの感情などいざ知らず、親に怒られる事を恐れず、よくもこんなに悪事をする者がいるのだなぁと呑気に感心していた。そして矢張り頑なに断った。

 次の日も、そしてその次の日も、悪友たちは少しづつ増えていった。ある者は僕のように怯えながらその様子を伺っている者もいたし、ある者は僕のように臆病でありながらも、恐る恐る吸っている者もいた。そしてこういう光景を日に日に観察していると、僕はある錯覚を覚えていった。これだけの喫煙人口がいるのだから、もしかしたらそこまで悪いことではないのかもしれない。いや、仮に悪いことだとしても、これだけの人数がいてバレていないのだから、きっと少しだけ吸っても大丈夫なのではないか、と。気の弱い少年の心理というものは、善悪の問題を途端に数の問題や安全の問題にすり替えてしまうものなのである。こうして僕は、「悪友」という、巨大で心強い組織を味方につけているという錯覚を抱きながら、煙草に対する警戒心を緩めていったのである。

 そして遂に、僕にもその時がやってきた。
「どうな、おまんも一本吸わんかや。」
 そう言ったのは、父親の部屋から煙草を拝借していた、あの彼である。僕は取り出された一本の白い筒状の紙をじっと見つめた。正直煙草には興味はなかった。が、友達の言うことを断り続けることに心苦しさがない訳でもない。それに皆んな吸っているし、どうにかなるのではないか。そうしたぼんやりとした、地面から浮遊したような安心感が父親からの呪縛を緩めていった。やがて僕は悪友の手から煙草を受け取り口元に持っていった。そして悪友はその先端に、ライターで火をつけてくれようとしていた。ライターの火は寒いトイレの中を、か細くも温かい光で包んでくれている。そして火はゆっくりと灯された。そして僕は息を吸い込んだ。刹那、僕はむせた。否、フリをしたのだ。何故だか分からないが、煙草に火が点った時、僕は鈍く重たい不安に襲われたのである。だから僕はそれを取り払うために、先人たちがむせていたように真似をしたのだ。
「エホッエホッ、もう、もう、いい。苦しいから。」
 幸いにも、悪友たちは僕がむせる姿が痛快だったようで、その一口で許してくれた。僕は助かった思いがした。これでもし誰かに咎められても、吸うフリはしていないから問題ないだろう。そう自分に言い聞かせながら吸ったことに対する罪悪をいうものをもみ消していった。

 ところが世の中というものはうまい具合に出来ているようである。僕が煙草を吸って三日も経たないうちの出来事である。昼食を終えてこれから授業がはじまろうという時、教室の扉を開いたのは担任の平井先生ではなく、体育の田中先生だった。田中先生は体育の授業の際、僕達と一緒になって全力でサッカーをしたりドッチをして笑ってくれる良い先生だったのだが、この時は神妙な、不安の色を浮かべながら入ってきた。しかし僕は呑気にも、「何故この時間に先生が?」などとぼんやりと考えるばかりであった。が、クラスの何人かは何か察したらしく、普段ざわついて授業を妨害する連中ほど、その時に限って静かだった事は覚えている。やがて先生は重たい口を開いた。
「えー、本来ならこの時間は算数ながやけど、ちょっと皆んなにどうしても聞きたいことがある。正直に答えてくれ。昼休みの前に、俺が三階のトイレを使おうとしたらこれが落ちちょった。」
 そう言って、先生は右手を広げて中をクラス中に見せた。するとその中には、なんと煙草の吸殻があるではないか。僕は背中のあたりから冷たいものが流れるのを感じた。
「おまんら、今から目え瞑れ。嘘はつくなよ。今までに煙草を吸った事がある奴、手を上げてみい。」
 僕は素直に目を閉じて、じっと上げるべきかどうするべきかを考えていた。最早、瀬戸際にまで追い込まれた僕は、肺に吸い込んでいないから吸っていないと言ったような方便を吐く気にはとれもなれなかった。ただ怒られる覚悟を決めるのか、黙って逃げおおせるのか、そうした考えばかりが頭の端から端を行ったり来たりしていた。すると突然、先生は大きな、荒々しい声で、
「もっとおるやろう、上げてみい!!」
 と怒鳴り出した。普段にこやかな田中先生が一転、このような怒声を上げるのだから余計に僕は手を上げることが怖くなってしまった。恐らく誰もいないところであったのなら、僕は泣いて耐えたかもしれない。が、今は先生が見ている。どうしても泣くことが出来ない僕は、ただ不安と恐怖に耐えながら思案するばかり。やがて先生は「よし、手を下ろせ。」と言って皆んなの手を下ろさせた。僕は遂に上げなかった。だが次に僕が気になったのは、一体何人が手を上げたか、ということであった。手を上げろなどと言っても、全員が全員てを上げるわけがない。僕のような臆病な輩が大抵で、吸う人しか手を上げていないだろうと思っていた。しかし結果は僕の予想を裏切ったのである。
「よし、今手え上げたモン、今から職員室に来い。」
 そう言われると何人かの生徒は席を立ち上がり、教室から出ていった。そして僕を驚かせたのはその数である。実に教室の三分の二の男子が吸い込まれるように部屋から出ていったのである。それは吸った悪友の殆どであった。僕は再び、不安を覚えた。が、さっきとは異質な不安である。やがて手をあの場面であげなかったことを後悔しはじめた。僕は俯きながら、ピカピカに磨かれている木製の机をじっと眺めていた。
 その後、授業は自習となり、生徒たちは宿題やドリルを行いながら職員室に向かった生徒を待った。やがて悪友たちは少しずつ、次々と帰ってきた。中には泣きべそをかきながら帰ってくる者もいた。少しずつ帰ってくる彼らを横目に、僕はもしかしたら自分の事を言われているのではないか、言われていたら余計に怒られるのではないか。が、言ってもらった方がかえってすっきりするのではないか……。不安は募りに募るばかりである。僕は自習に集中しているフリをしながら、じっと自らの内から出てくる暗い気持ちを押さえ込んでいた。

 その日の下校の前、担任の平井先生は一枚の、まっさらなプリント用紙をクラスの全員に配っていった。そして静かに、落ち着いた口調で次のようなことを述べていた。
「何回も悪いがやけど、大事なことやき、付きおうてね。もしも煙草吸った事を言うちゃあせん人がおったら、そこにある紙に名前を書いちょきよ。吸ってない人も、もし友達の中に吸っちゅう人がおったらその紙に書いちょって。これは君らの大事な将来の為でもあるがやきに。裏切ったとかそんなんじゃなくて、その人の為を思うなら、書いちゃってよ。吸っちょった人も、今ならまだ間に合うきに、書いてくれた方が自分の為ながで。」
 こうした言葉のひとつひとつに、僕は心を打たれた。もともと神経のか細い僕は、最早煙草を吸ったこと、悪友を裏切って自分だけが助かろうとしていたこと、父親に怒られることを考えること、そのすべてが嫌になっていた。そして何も書かれていない用紙に、自分の名前と「吸いました」と一言添えて提出した。先生は一枚一枚まじまじと見た後、吸った生徒も吸わなかった生徒も平等に帰してくれた。
 そして下校になると数人の悪友が僕の席に集まってきた。話題は勿論、僕が吸ったことを告発しなかったことについてである。
「安井、おまん煙草吸ったって言うちゃあせんやろう。職員室で一人一人話しゆう時に、廊下でおまんの話になったきね。安いのお父は怖いきに、みんな安井の事は黙っちょいちゃろうぜって。だから黙っちょけよ。」
 これは今に思うと彼らなりの口実なのであろう。当然僕の父の恐ろしさを、皆僕の話から知らない訳ではない。しかし、叱られると言う事自体、万人にとっては少なからずの苦痛は伴うはずである。よって、彼らは僕に気を遣ってそう言ってくれたのである。ところがそんな話をしている最中、悪友のうちの一人がニヤニヤとしながら、なんの悪びれもなく、とんでもない事を言い出した。
「まぁ、俺はさっきおまんの事書いたけんどね。」
 一同は彼に注目した。が、誰も彼を責めたり非難したりしない。そしてそんな中、僕はすんなりとその言葉を受け入れ、返事をした。
「うん、僕も書いた。」
 書いたのは自分も同じで、まず最初に問われた時、手を上げなかった自分が悪い。そう思った奥は、その時の彼をどうこうしようという気にはなれなかった。寧ろ彼の方が僕の言葉に目を丸くして動揺したようである。
「え、嘘やろ。折角みんながおまんを助けようとしちょったがやにい。」
 こう意外そうに言った後、彼は再び念を押すように、「まぁ俺は書いたけんどね」と言った。

 その後、家に帰った僕は、事情を知った父にこっぴどく怒られ、母に泣かれ、その日の夕食は食べさせて貰えなかった。が、それよりも僕の胸に残っていったのか、悪友の、「まぁ、俺はさっきおまんの事書いたけんどね。」という一言であった。彼が当時本当に書いたのかどうなのかについては、未だに定かではないし、明らかにする気もない。が、今でも彼と交際があることだけは確かである。

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