2016年1月11日月曜日

最後の一句ー森鴎外

 船乗りである「桂屋太郎兵衛」(かつらやたろうべえ)は、自身の仕事においてある不始末を行った為に、斬罪に処する事が決定しました。この知らせを聞いた、彼の娘である「いち」は願い書を書いて父を助けてもらうよう、他の妹や弟達に提案します。しかし、それでけでは、奉行は自分たちの願いを聞いてくれないだろうと考えた彼女は、なんと自分達の命を差し出す代わりに父の命を見逃してもらうよう頼むと言うのです。当然兄弟達は動揺しましたが、いちはそんなことなど気に止めません。

 こうして自らの命を差し出す事を決めた兄弟の何人かは、奉行所へと足を運びました。ところが、門番に事情を説明しようとするのですが、門番は彼女らの話も聞かず門前払いを食らわします。ですがそれにも何喰わぬ顔で、いちは他の兄弟にも指示を出し、皆で門の前に座り込んで、再び開いたかと思うと、なんとお構いなしに中へ入ろうとするではありませんか。そして先程の門番と押し問答する羽目になったのですが、そこへ一部始終を見ていた他の詰め衆(つめしゅう)がやってきました。そして委細を承知した一人の詰め衆がいちの手から願書を受け取り、遂に奉行のもとに届くこととなったのです。

 しかしここでも大きな難関が彼女たちを待っていました。と言いますのも、いちが書いた大人顔負けの願書(ふつつかなかな文字で書いてあったが、条理がよく整っており、大人でもここまでのものを書くことは骨が折れるほどの出来だったのです。)を見た奉行、佐佐又四郎成意(ささまたしろうなりむね)は、一旦子供達を帰すと、何か情偽があるのではないかと邪推し、彼女ら一家を尋問することにしたのです。この時、奉行はもし偽りがあれば、本当の事を言うまで拷問に処すると彼女らを脅しました。一家は大なり小なり動揺を禁じえませんでしたが、矢張りいちだけは臆する事なく淡々と答えていきます。そして奉行から、「そんなら今一つお前に聞くが、身代りをお聞屆けになると、お前達はすぐに殺されるぞよ。父の顏を見ることは出來ぬが、それでも好いか。」と言われますが、それに対しても彼女は冷ややかな調子で「よろしゅうございます」と答えました。その後、何かを考えた後、
「お上の事に間違いはございますまいから」
 と付け足すのでした。瞬間、奉行は不意打ちを喰らった心持ちになり、いちの表情を確認します。その時、彼女は憎悪にも似た驚異の目をしていたと言うのです。そしてこの、親を庇う心の内にある反抗の鋒は、奉行だけではなく、書院にいた役員一同の胸にも刺さり、彼女の最後の一句が反響するのでした。
 こうしていちは自らの「献身」によって自らの父親の命を救っていったのです。


 この作品では、〈「献身」の心が強すぎるが故に、身辺の大人達の脳裏を支配し、父親を救ったある少女〉が描かれています。

 
 この物語の面白いところは言うまでもなく、一人の少女の一句によって、大の大人達が彼女の言うことを聞かなければならなくなっていった、というところにあります。ではこの問題を解くにあたって、役人たちの脳裏にあるいちが、どのようにして移り変わっていったのかを見ていきましょう。

 はじめ門番が彼女を追い払おうとする場面においては、いち達の話を聞かないところから察するに、罪人たる父をなんの条件もなしに助けて貰おうという、哀願の気持ちから奉行所にやってきたのはないかと考えた事でしょう。ですから門番は彼女らに取り合わず、門前払いを食らわせたのです。
 しかしそれにしては中々帰らず、一向に引かないいちの様子から、門番たちはどうも様子がおかしい事に気が付き始めます。そこで彼女の願書を受け取り、奉行に見せることにしたのです。

 そしてその願書を受け取った奉行は、彼女の大人顔負けの文章とその内容を見た時、そうした覚悟がその少女の内あることを信じられず、何か裏があるのではないかと考えていきます。それと同時に、少々痛い目を見せる素振りでも見せれば、ボロが出るとすら考えていたはずなのです。そしてこのような考えこそが、いちの願書を聞かなければいけなくなっていった、大きな要因となっています。それは下記のやり取り、所謂、いちの最後の一句の前後のやりとりに顕著に表れています。

「そんなら今一つお前に聞くが、身代りをお聞屆けになると、お前達はすぐに殺されるぞよ。父の顏を見ることは出來ぬが、それでも好いか。」
「よろしうございます」と、同じような、冷かな調子で答へたが、少し間を置いて、何か心に浮んだらしく、「お上の事には間違はございますまいから」と言ひ足した。
 佐佐の顏には、不意打に逢つたやうな、驚愕の色が見えたが、それはすぐに消えて、險しくなつた目が、いちの面に注がれた。憎惡を帶びた驚異の目とでも云はうか。しかし佐佐は何も言はなかつた。

 上記の奉行の言葉は、いちの覚悟を問うています。それに対し、彼女はさらりと返事を返し、加えて、「お上の事には間違はございますまいから」と続いているのです。この最後の一句こそ、いちの覚悟の現れに他なりません。彼女の内では、自らが死ぬる事は既に決定事項なのであり、変更不可能な未来なのです。ですがそれ以上に心配している事は、役人たちが果たしてその覚悟に似合う約束の果たし方をしてくれるか否かを問い返しています。ですから著者はいちの一句を不意打ちと表現しているのです。
 また、その言葉を聞いた役人たちのいちの像も大きく変化していきます。と言いますのも、それまでのいちの像というものは、彼らが無視をしたり、脅したりすれば掌握出来るような、可愛らしいものであったのですが、この一言によって、それが掌握不能な、巨大な大きな障壁のように感じられたことでしょう。
 つまり結果として、いちの覚悟というものが、彼らの想定していた覚悟以上に、遥かに大きなものだった事が、一人の少女の言うことを聞かなければならなかった所以となっているのです。

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