「マテュー・ダントラン」の隣家には、所謂狂女(キチガイ)と呼ばれる類の女が住んでおりました。この女は二十五の歳に、たったひと月のうちに、その父親と夫と産まれたばかりの赤ん坊を亡くし、天涯孤独の身となってしまったのです。以来、女は床に伏した儘となり、一度起こそうとしようものなら、今にも殺されでもするのかと思うほどに、泣き喚き、手がつけられないと言います。
それから十五年という月日が流れ、フランスが普仏戦争に突入した頃、彼女らの街にもプロイセンの軍隊が攻めてきました。そして将校は兵隊たちを民家に割り当て、狂女のところに十二人の兵隊が入ることとなったのです。その中に鼻っぱしの荒い、気難しい少佐がいました。彼は女が病気で部屋から出てこないことを予め聞いていたので、最初の何日かは気にもとめていないようでした。しかし、日が経つにつれて業を煮やしていきます。少佐は女の病気が本当だとは思われず、実際は自分たちプロイセンに対する反抗の為、部屋から出てこないのであろうと考えていくようになっていったのです。そこで少佐は、直々に女の部屋へ行き、話したいことがあるので自分たちと面談するよう言いました。しかし女は虚ろな目を向けて、うんともすんとも言いません。そこで少佐は、
「無体もたいていにしてもらいたいね。もしもあんたが自分から進んで起きんようじゃったら、吾輩のほうにも考えがある。厭でも独りで歩かせる算段をするからな」
と言いました。それでも女の様子は変わりません。ところが少佐はこの沈黙は自分への侮辱だと考え憤慨し、「いいかね、明日になっても、もし寝床から降りんようじゃったら――」と言いかけて部屋を出ていきました。
そして次の日、女はやっぱり外には出てはきませんでした。少佐が部屋に行くと老女が、抵抗する女に必死で着物を着せようとしていました。老女は、
「奥さんは起きるのがお厭なんです。旦那、起きるのは厭だと仰有るんです。どうぞ堪忍してあげて下さい。奥さんは、嘘でもなんでもございません、それはそれはお可哀相なかたなんですから――」
と言いましたが、少佐の堪忍袋の緒が遂に切れました。彼は兵隊に命令し、女をその布団ごと、イオモオヴィルの森へと担がせました。そして森からは兵隊達だけが出てきたのです。
やがてプロイセンの軍が街から出ていった年の秋、「マテュー・ダントラン」はその森で例の女の遺体を発見しました。そして「僕たちの息子の時代には、二度と再び戦争などのないように」と、ひたすら彼はそれを念じたのです。
この作品では、〈自分と相手の立場を意識するあまり、表現を捉え違うこともある〉ということが描かれています。
物語を読み終えた読者は、「マテュー・ダントラン」の最後の「そして、僕たちの息子の時代には、二度と再び戦争などのないようにと、ひたすら僕はそれを念じている次第なのだ。」という言葉jから、恐らく、「この物語の悲劇というものは、一体どこからやってきているのだろう」と考えずにはいられなくなることでしょう。そしてそれは言うまでのなく、狂女の表現と大佐の受け止め方の食い違いにあります。では、それらのやりとりをつぶさに見ていくことにしましょう。
狂女の存在を知った少佐は、はじめは気にも止めていなかったものの、徐々に彼女について懐疑的になっていきます。と言いますのも、世はフランスとプロイセン都で戦争中。ですから少佐が考えるフランス人の前提としては、プロイセンが絶対的にフランス人に好意を持たれておらず、寧ろ嫌われているはずだという想定があるのです。ですから彼はそうした戦争という色眼鏡で狂女を見た時、彼女の話というものが怪しく思えてきはじめます。
一方、狂女の側では、愛する家族をひと月のうちに失って以来、人間としての感情をも亡くしていきました。ですから少佐は思っているような、人間観を描くことは出来ず、ましてや相手の表現を受け止める実力すらも残っておらず、ただぼんやりとベッドに寝ているしかないのです。
ですが、色眼鏡をかけた少佐からは、そんな女の事情を正確に読み取ることは出来ません。彼は、話があるから部屋から出てこいという命令に、うんともすんとも言わない女を見て、自分への侮辱と考えていったのです。最早、こうなれば、女がいかなることを言おうとも表現しようとも、少佐からは立派な反抗に見えてしまいます。ですから後日、老女に抵抗して頑なに着替えようとした女を見た時も、「そうまでして我がプロイセンに逆らいたいのか」という想いが内からこみ上げてきたことでしょう。結果、彼女はプロイセンに反逆されたと見なされ、イオモオヴィルの森でその生涯を閉じなければならなかったのです。
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