2011年12月29日木曜日

駆落(修正版)

高等学校生徒であるフリツツと、とある娘のアンナは互いに愛しあってはいるものの、互いの家族は二人の関係を認めていない様子。二人はこのような状況に嫌気を感じており、漠然とながらも、駆落について考えていました。
ある時、フリツツが自宅から帰ってくると、アンナから一通の手紙が届いていました。その内容は、「父親に何もかもばれてしまし、もう一人で外へ出られなくなってしまったので、駆落を実行しよう」というものでした。この手紙を読み終えた時、フリツツは嬉しくて仕方ありませんでした。ですが、後に彼は彼女のことを考えれば考えるほど、彼女を嫌いになっていきます。さて、彼は何故彼女を嫌いになってしまっていくのでしょうか。
この作品では、〈理想と現実の間の隔たりが大きすぎた為に、理想を諦めなければならなかった、ある青年〉が描かれています。
まず、この作品の論証するにあたって、下記の箇所を中心に進めていきたいと思います。

少年はその音を遠くに聞くやうな心持で、又さつきの「真の恋愛をしてゐる以上は」と云ふ詞を口の内で繰り返した。
その内夜が明け掛つた。
フリツツは床の上で寒けがして、「己はもうアンナは厭になつた」と思つてゐる。

この箇所は、「その内夜が明け掛つた。」という一文をまたいで、フリツツの心情が大きく変化していることが見てとれます。その前の文章では、彼はアンナに対してまだ恋愛感情を持っており、駆落のことを考えています。ですが彼は考えてはいるものの、その具体的な問題が全く解決出来ず、次第にアンナが嫌になっていき、やがて夜が明けてしまいます。
では、彼は何故駆落に関する問題がひとつも解決出来ず、彼女のことが嫌いになってしまっていったのでしょうか。それを知るためには彼が語る、「真の恋愛」というものの中身について考える必要がありそうです。彼は彼女の手紙を受け取り、「兎に角一人前の男になつたといふ感じがある。アンナが己に保護を頼むのだ。己は女を保護する地位に立つのだ。保護して遣れば、あの女は己の物になるのだ」と喜んでいるあたり、彼にとって彼女と暮らすということは、彼女を自らが養うことであり、同時にそうすることで自分が考える理想の男になることでもあるのです。ですが、彼女と暮らすことそのものに対する理想の像というものは、まるで語られていません。ここが彼の理想の像が薄いと言わざるを得ない、決定的な点となっています。ですから彼は何処に住むべきかなどといった、具体的で現実的な問題がまるで解けなかったのです。だからこそ、今自分が持ちうる全てと彼女とを天秤にかけた時、彼女を選べなかったのです。それどころか、現実的に彼女と暮らす事が理解できた時点で、恐らくフリツツにとって、アンナは愛する対象から自分が持っているもの全てを奪ってしまう、嫌悪の対象へと変わっていったのです。
まさに彼の失敗は、自身の理想に対する像の薄さからきており、その薄さが現実との隔たりを大きく広げていったのです。

2011年12月24日土曜日

牛乳と馬(修正版)

ある日、秋子は軍馬とぶつかりそうになったことをきっかけに、その馬の主である小野田という男と知り合いになります。そして、この出会い以来、彼は何かにと理由をつけて牛乳を彼女の家まで届けることとなりました。そしてこの謎の男との出会いは、秋子の家族に異変をもたらします。特に彼女の姉である夏子は、彼が運んでくる牛乳は馬の臭いがする、夜、何も音がしないにも拘らず、馬の足音が聞こえてくる等と言い、小野田を意識している節がありました。
ですが、このような生活にも、別れの時が刻々と近づいていました。秋子の一家は今住んでいる土地を去り、東京に帰ることになっていたのです。そこで夏子と母は、彼をお食事に招こうという事を話し合っていました。これに関して、秋子は内心反発していましたが、結果的に自分から、彼を招いてしまうこととなってしまいます。
翌日、彼は彼女の家を訪れました。ですが、夏子の様子がいつもとは違い、妹の秋子ですら、姉から氷のような冷たいものを感じとらずにはいられませんでした。やがて姉は冷たい口調で、「わたし、小野田さんに伺いたいことがありますから。」と言って他の者を追い出してしまいます。そしてその内容とは、そもそも小野田は夏子の恋人の友人ではないのか、ということです。姉は彼の正体について薄々感づいていたのです。更に彼の方でも、その恋人から夏子に向けて、「愛も恋も一切白紙に還元して、別途な生き方をするようにとの切願だった。ついては、肌身離さず持ってた写真も返すとのこと。」との伝言を依頼されていました。しかし、この伝言を聞いて夏子は倒れてしまい、それが災いしたのかやがて死んでしまいました。
この作品では、〈事実を伝えようとしないこと、知ろうとしないことがいい事もある〉ということが描かれています。
はじめに、秋子は、姉が死んでしまったことに対して、下記のような憤りを述べています。

「わたしは小野田さんを憎む。あのひとは本質的にはまだ軍人だ。軍馬種族だ。それについての憤りもある。わたしたち、お母さまもお姉さまもわたしも、まだ甘っぽい赤ん坊だ。ミルク種族だ。それについての憤りもある。」

では、これらはそのぞれのどのような行動、または態度を見て避難しているのでしょうか。まず、上記の憤りは、「結果的に」姉が死んだことに対して、彼女が事実を知ったために死んだのだと考えている事から感じているものなのです。そして小野田に対しては事実を告げようとした、その態度を非難しています。彼は姉が病気であると知り、恋人の伝言を伝えようか否かを迷っていました。ですが、それでも最終的には姉にそれを伝えてしまった為に、またそこから、軍人が上官の命令に対して、苦悩しながらもそれを実行する様を彷彿した為に、秋子は彼を「本質的には軍人」なのだと評しているのです。
では、一方の秋子達達、一家の態度についてはどうでしょうか。それについても、やはり彼女は憤りを感じています。姉は小野田が何か隠している事は知りつつも、その中身に対しては深く考えていませんでした。母は何も考えず、彼を招いてしまいました。秋子は秋子で、彼に心を許して小野田を家に入れてしまいました。これらの警戒心のなさから、自分たちを「まだ甘っぽい赤ん坊だ。ミルク種族だ。」と称し、避難せずにはいられなかったのです。

2011年12月22日木曜日

王さまと靴屋(修正版)

ある日、ある国の王さまは乞食のような姿をして町へ出かました。そして、そこの靴屋に入り、店主であるじいさんにこのような事を尋ねました。「おまえはこの国の王さまはばかやろうだとおもわないか。」じいさんはこの質問に対して、「思わない」と答えました。ところが、王さまはこの答えに納得がいかない様子。そこで、彼はポケットから金の時計を出して、「王さまはこゆびのさきほどばかだといったら、わしはこれをやるよ。」と、どうしてもばかだと言わせようとします。しかしじいさんはこの態度に憤慨し、王さまを脅し、店から追い出してしまったのです。
この作品では、〈自分が考えている自身に対する評価が、他人が考えているまっとうな評価と常に一致しているとは限らない〉ということが描かれています。
まず、物語の中で、王さまがしつこくじいさんに自分に対して馬鹿と言わせようとするあたり、彼は「自分は馬鹿である」という事を仮説として、また自分への評価として持っていたということは充分言えます。ですが、それは何かで証明しない限り、自分の中の評価としてあるとは言え、それは仮説にしかすぎません。ですから、彼は町の人々から自分の「まっとうな評価」を直接聞く必要があったのです。
そしてこの「まっとうな評価」を得る為に、彼は自分なりの2つの工夫を凝らします。その工夫とは、ひとつは別の誰かに扮すること。もうひとつは、金銭的なもので相手をつって本音を聞き出そうとすること。しかし、この工夫の裏には王さまの主観が混じっており、一歩間違えば他人が考えている評価とは異なった事を言わせてしまいかねません。というのも、彼はこの工夫を実行した際、じいさんに「もしおまえが、王さまはこゆびのさきほどばかだといったら、わしはこれをやるよ。」と言い、金の時計を差し出しました。これではお金に目が眩んでいる者であれば、真意はどうであれ、王さまはばかだといいかねません。
ところがこの誤った工夫が、後にじいさんの発言が「まっとうなもの」であった事を証明してくれるものとなるのです。何故なら、この王さまの発言を聞いたじいさんは、憤慨したからです。彼は王さま(じいさんの目から見れば乞食)が自分をばかだと思っていること、自分を金銭的なものでつることによってそう言わせようとしていること、これらの態度に腹を立て、店から追い出しました。この行動から、これまでのじいさんの言動は何か意図したものではなく、それが王さまへの「まっとうな評価」だった事が理解できます。そして、これにより王さまはそれまで抱いていた自身への仮設(評価)を誤ったものとして捨て去る事ができ、人々が持っている自分への信頼に気づくことが出来たのです。だからこそ、彼は人々に対して、「わしの人民はよい人民だ。」という感想を何度も述べることにより、その感動を噛み締めているのです。

2011年12月19日月曜日

破落戸の昇天(修正版ー2)

破落戸(ごろつき)であるツァウォツキイは、妻と2人でとても貧しい生活をしていました。そんな彼は、自身が破落戸であるために妻に貧しい思いをさせている事に関して、日々心苦しさを感じていました。ところが、彼はそうした自分の気持ちを妻に素直に伝える事が出来ず、どういう訳か、それが罵声となって表れてしまいます。
ある時、彼はこうした現状を自分なりに解決しようと、賭博に持っていたお金をすべて使ってしまいます。その挙句にお金は全て騙し取られてしまい、途方に暮れた彼は自らの命を断ってしまいます。
その後、自殺を図ったツァウォツキイが辿り着いた場所は死後の世界でした。そこで彼は自分の中にある、悪の性質を取り除く光線を浴び続ける罰を課せられることとなります。同時に彼はそこで、一日だけ娑婆に帰り、やり残した事をやり遂げる権利を与えられたのです。彼はこの権利を一度は断ります。ですが、罰を与えられ続けた末、生きているうちに見れなかった自分の娘をこの目で見たいと思うようになり、やがて自らそう申し出てきました。こうしてツァウォツキイは、実の娘と対面するチャンスを得ることになります。しかし、肝心の娘は彼の事など知る由もなく、突然現れた見知らぬ訪問者に、彼女は玄関の戸を閉め拒絶しようとします。この娘の行動に彼は我を失い、怒りを顕にし、なんと彼女に手をあげてしまいます。そして、我に返った彼は恥ずかしい気持ちになりながら、もといた世界に帰り、やがてその行動が仇となり、地獄へと送られる事となったのです。
この作品では、〈表現の中に何か別のものが含まれている事は分かっているものの、それを上手く言葉で説明できない事への悩み〉が描かれています。
まず、上記のあらすじにもあるように結果として、ツァウォツキイは他人に優しくすることが出来ず、地獄へと送られてしまいました。ですが、彼自身全く妻や娘に対して、優しさそのものがなかった訳ではありません。事実、彼は貧しい生活をしている妻に対して、不憫にすら思っていたのですから。しかし、それをどう表していいのか分からず、それがどういう訳か罵声や手を打つ等の表現に変わっていったのです。そして、そんな複雑な彼の気持ちとは裏腹に、死後の世界の役人などの周囲の人々は彼のことを、「ツァウォツキイという破落戸は生きているうちは妻に罵声を浴びせ、死んでも尚娘に手をあげるどうしようもない下等な人間」とみなしていました。
ですが、一方で彼の気持ちを「ある程度」理解できた人々もいました。それは、彼に罵声や暴力をふるわれた、妻と娘に他なりません。娘はツァウォツキイに手をあげられながらも、その事に関して「ひどく打ったのに、痛くもなんともないのですもの。(中略)そうでなけりゃ心の臓が障ったようでしたわ。」と、奇妙な印象を持っているのです。そして、それを聞いた彼の妻も、声を震わせているあたり、その人物がツァウォツキイだと直感したのでしょう。まさに彼女たちに起こっているこれらの現象は、彼の気持ちを「ある程度」理解していたからだと考えて良いでしょう。そして、ここで「ある程度」と断らなければ、彼女たちが、暴力(表現)の中にツァウォツキイの彼女たちへの優しさがあった事は突き止めることはできていますが、その中身(何故ツァウォツキイが暴力的にならなければならなかったのか)を特定することが出来なかったからという一点に尽きます。だからこそ妻は、彼の葬式で彼が死んだことを周囲の人々にあれこれと言われても、反論は出来なかったのです。また、娘が手をあげられた事件が起こって以来、彼女たちはその事に関して閉口していましたが、この事に関しても、上記と同じ理由が当てはまります。つまり彼女たちは、表現の中身が特定できず、死人故聞くに聞けなかった為、結局本心が分からず口を紡ぐしかなかったのです。

2011年12月13日火曜日

破落戸の昇天(修正版)

街中で道化方として生計を立てているツァウォツキイは、喧嘩っ早く、他人には暴力を振るい、窃盗や詐欺などもする、どうしようもない破落戸(ごろつき)でした。そんな彼は妻と二人暮しをしていましたが、夫である彼がこのような調子なので二人は非常に貧しい生活をしていました。そして彼は、自身の妻にそのような生活をさせていることに心苦しさすら感じていました。ですが、そういった事を彼女にうまく表現できず、どういうわけか彼女を怒鳴りつけてしまう始末。そして彼はそうした生活を自分の力でなんとか打破しようと、賭博に有り金を全てはたいてしまいます。しかし結局は負けてしまい、その絶望の挙句、自らの命を断ってしまいます。
その後、彼は死後の世界へと連れてこられ、そこで自らの命の浄火(極明るい、薔薇色の光線を体に当てて、悪の性質を抜き取る作業)を強制されます。またそれと同時に、彼はそこで役人から一日だけ娑婆に帰れる権利を得ることになります。はじめ彼はこの権利を拒みましたが、16年間の浄火の末、自ら「生きている間に見ることの出来なかった、自分の娘の姿を見たい」と申し出てきました。こうして彼は自身の娘と対面する機会を得ることが出来たのです。ですが、娘の方は当然父の存在など知る由もなく、全くの他人だと考え玄関の戸を閉めようとします。それに彼は怒りを顕にして、娘の手をはたいしてしまいます。そして、我に返った彼は恥ずかしい気持ちの儘、死後の世界へと帰り、やがて地獄へと送られてしまいます。
そして彼が地獄に送られている一方、娘は母にその出来事を話して聞かせました。その中で娘は、読者である私達が想定していなかった驚くべき感想を述べはじめます。それは一体どのようなものだったのでしょうか。
この作品では〈ある気持ちを隠すため、別の気持ちを相手に見せなければならなかった、ある男〉が描かれています。
まず、上記にある、父に手を打たれた娘の驚くべき感想とは、「ひどく打ったのに、痛くもなんともないのですもの。ちょうどそっと手をさすってくれたようでしたわ。」というものでした。では、彼女は父であるツァウォツキイの、一体どのような性質を感じ取り、このような感想をもったのでしょうか。
それを知るために、彼が妻を怒鳴っているシーンをもう一度確認してみましょう。この時、彼は何も妻が本当に憎いだけで怒鳴っていたわではありません。上記のあらすじにもあるように、彼は妻に苦しい生活をさせている事に対して、気の毒にすら感じています。ですが、彼はそのような気持ちを一切妻に見せようとはしませんでした。むしろ、それを隠そうとして彼女を怒鳴ったのです。そして、草葉の陰でひっそりと泣いている辺り、彼が妻に自分の気持を素直に表現しなかったのは、「もしも、妻に見せてしまったら、妻は自分に……」となんらかの形で彼女が彼に気を使うだろうと考えたからではないでしょうか。だからこそ、ツァウォツキイは妻に対して自身の怒りを持って接していかなければならなかったのです。
そして、こうしてツァウォツキイの気持ちをひとつひとつを読み取っていくと、彼の怒りという感情が、実に複雑である事が理解できます。すると、物語の終盤で娘の手を打った、彼の怒りには一体何が含まれていたのでしょうか。そこには、16年間娘を思い続けていた苦しさ、その娘にやっとの思いで出会えた嬉しさ、しかしその娘に戸を閉められる悲しさ。こうした娘への強い思いがそこには含まれているのです。ですが、彼は死者という現在の立場から、それを素直に表現することが出来なかったために、手を打つしかなかったのでしょう。また娘は娘でそうした彼の気持ちを受け取ったからこそ、ツァウォツキイに手を打たれた事に対して、あのような感想を持つことが出来たのです。
また、これらの事を踏まえた上で、作者が「小さい子供を持った寡婦がその子供を寐入らせたり、また老いて疲れた親を持った孝行者がその親を寝入らせたりするのにちょうどよい話」と、何故読者を限定するような事を冒頭で述べているのかが理解できるはずです。例えばあなたが子供だった頃、親に叱られた時、あなたは怒っているという表面だけを読取り、親がどうして自分を叱るのか、理解出来ずに泣いたことはないでしょうか。そんな時、この作品を予め読んでおり、人間のある気持ちというものは複雑なもので、そこには様々な気持ちが含まれれいる事を感性的ながらにも知っていれば、自分を叱る親に対する見方も違っていたのかもしれません。まさにこの作品は、親の気持ちを知る為に描かれたものだと言っても過言ではないでしょう。

2011年12月11日日曜日

破落戸の昇天ーモロナール・フェレンツ(森鴎外訳)

町なかの公園に道化方の出て勤める小屋があって、そこにツァウォキイという破落戸が住んでいました。彼ははえらい喧嘩坊で、誰をでも相手に喧嘩をする。人を打つ。どうかすると小刀で衝く。窃盗をする。詐偽をする。強盗もするような、どうしよもない人物でした。ですが、そんな彼も自分の妻の事はその身を案じており、銭が一文もなくなった時などは、彼女がまたパンの皮を晩食にするかと思うと、気の毒にさえ思うというのです。しかしその一方で、ツァウォキイはそんな自分の気持を素直に表現することができず、逆に気持ちを隠そうとして、彼女に辛くあたってしまいます。そしてそんな彼は、やがて財産を全て失い、銭を稼ぐ術をも見いだせなくなった挙句、小刀を自分の胸に突き刺して死んでしまいます。
死後、彼は役人たちに緑色に塗った馬車に乗せられて、罪を浄火されるべく糺問所へと連れていかれます。そして、そこに連れてこられた人々は同時に、一日だけ娑婆に帰れる権利を与えられます。これをツァウォキイは、一度は拒否するも、徐々に自身の心が浄くなるにつれて、娑婆にいる自分の娘に会いたいという思いを強めていくのです。ですが、彼はやがてこの権利を行使するも、自らこのチャンスを台なしにしてしまいます。一体彼は何故、折角のチャンスを台なしにしてしまったのでしょうか。
この作品では、〈怒りでしか、自分の感情を表現出来なかった、ある破落戸〉が描かれています。
まず、上記にもあるように、ツァウォキイは娑婆で実の娘に会う機会を得ることができます。しかしいざ実の娘と対面し、「なんの御用ですか」と尋ねられ、上手く反応できず「わたしはねえ、いろんな面白い手品が出来るのですが。」と、誤魔化す事しか出来ませんでした。これに対し、娘は当然の事ながら、「手品なんざ見なくたってよございます。」と父をあしらってしまいます。そこで、ツァウォキイは怒りを顕にして右の拳を振り上げて、娘の白い、小さい手を打ってしまいます。こうして、彼は娘との折角の対面を失敗に終わらせてしまいます。ですが、これは完全な失敗と言えるのでしょか。というのも、父にぶたれたことに対して「ひどく打ったのに、痛くもなんともないのですもの。ちょうどそっと手をさすってくれたようでしたわ。真っ赤な、ごつごつした手でしたのに、脣が障ったようでしたわ。そうでなけりゃ心の臓が障ったようでしたわ。」と、あまりひどい事だとは思ってもいない様子。一体どういうことでしょうか。
さて、こうした怒りに関する複雑な感情は、現実を生きる私達にもしばしばあります。例えば、過去に父や母に怒られた事を思い出し、その時は分からず、苛立ち、悲しく思っていても、大人になるにつれてそれが有難いことだったと感じることはなかったでしょうか。私達がこのように思えるのは、こうした親の怒りの中に、私達に対する思いが含まれているからに他なりません。
そして、物語に登場するツァウォキイに関しても同じことが言えるのです。そもそも、彼が怒りを顕にした理由が、娘を思うあまり、辛くあたられた事にあるのですから。
こうした私達の感情は、私達が思っている以上に複雑で、その表現の仕方もそれと比例するように同じく複雑なものへとなっているのです。

2011年12月8日木曜日

王さまと靴屋ー新美南吉

ある日、王さまはこじきのような格好をして、一人で町にやって来ました。そして、一件の小さな靴屋に入り、靴屋のじいさんに「マギステルのじいさん、ないしょのはなしだが、おまえはこの国の王さまはばかやろうだとおもわないか。」
と、王さまとしての自分の評価を尋ねます。しかし、じいさんはそれを否定し、「おもわないよ。」と答えます。ところが、王さまはじいさんのこの答えに納得がいかない様子。一体何故、王さまはじいさんの答えを疑ってしまったのでしょうか。
この作品では、〈自分の意見を相手に押し付けてしまった、ある王さま〉が描かれています。
それでは、上記の問題に答えるにあたって、そもそも王さまは自分の事をどう考えているかを考えていきましょう。恐らく王さまは靴屋のじいさんに、「おまえはこの国の王さまはばかやろうだとおもわないか。」と質問しているあたり、決して自分の中の自分の評価は高くはなく、寧ろ低く考えているようです。そして、その考えをこうして口に出して、改めて確認するように質問しているということは、「自分でも自分が悪いばかだと考えているのだから、他人だって自分のことを同じように考えているはずだ。」という意味が含まれているのです。ですが、実際のところ、靴屋のじいさんはそうは考えていません。ところが、自分の評価が低いはずであると考えている王さまはその回答に、それが真実であるにも拘らず納得できず、じいさんをものでつってでも、自分の中の結論を相手から引き出そうと考えずにはいられなかったのです。
そして、こうした相手へ自分の考えを押しつけてしまうという性質は、実は現実を生きる私たちの中にもちゃんとあるものなのです。例えば、貴方が意中の異性に自身の思いを告白し、相手も貴方に好意を示すようなことを述べた時、貴方は一体どうしますか。もう一度相手の好意を確認したり、自分の短所を羅列して述べるなどいうことはないでしょうか。もし、これらの事をやっているのであれば、貴方は自分の評価を相手に知らず知らずのうちに押し付けているのです。

2011年12月6日火曜日

牛乳と馬ー豊島与志雄

秋子はある時、牛乳の一升瓶をぶらさげて家に帰っている途中、ある男を乗せた馬が彼女の方目掛けて走ってきた為に、秋子は牛乳瓶を割ってしまいます。そして、男はそのお詫びに、自分が弁償し秋子を家まで送ることを申し出てきました。そして、彼女はこの男と会話していく中で、彼の正体は自分の兄である三浦春樹の知り合いの小野田達夫だと告げます。また、彼は彼女を送り届けた後に、病気を患っている彼女の姉や母にも挨拶をし、これからは自分が牛乳を彼女たちに届けたいと言い出しました。ですが、この親切そうな人柄である小野田に対し、秋子は好意的にはなれず、彼は何か隠しているとさえ感じていきます。果たして、彼は彼女が考えているように何か隠しているのでしょうか。また、そうだとして、一体何を隠しているのでしょうか。
この作品では、〈友との約束を破らず、果たすことしか出来なかったある不器用な軍人と、真実を受け入れる事しか出来なかったある女たち〉が描かれています。
実は、小野田は秋子が考えていたように、彼女ら家族に嘘をついていました。彼は秋子の兄の知り合いなどではなく、実は姉の恋人である高須正治の戦友だったのです。更に彼が彼女たちに接触した理由は、戦友たる高須から、「愛も恋も一切白紙に還元して、別途な生き方をするようにとの切願だった。ついては、肌身離さず持ってた写真も返すとのこと。」という伝言を姉に伝えるためだったのだと言うのです。ですが、その姉が病気だということを知り、躊躇し、牛乳運びなどをして様子を伺っていたのでした。しかし、小野田は秋子の姉に責めたてられ、真実を話してしまうことになるのです。その結果、姉は傷つき、更に病状は悪化しやがては死んでしまいます。そして、この一連の彼の行動が秋子を苛立たせてしまうことになってしまいます。
では、彼女は具体的に、どのようなところに怒りを感じているのでしょうか。下記の彼女の心情が書かれている箇所を見ていきましょう。

「わたしは小野田さんを憎む。あのひとは本質的にはまだ軍人だ。軍馬種族だ。それについての憤りもある。わたしたち、お母さまもお姉さまもわたしも、まだ甘っぽい赤ん坊だ。ミルク種族だ。それについての憤りもある。」

つまり、彼女は自分たちと小野田との関係を軍馬と牛乳、或いは軍人と無防備な赤ん坊とに例えて、ただ戦友の伝言(命令)に軍馬が戦地に向かうが如く、ただ従うだけしか出来なかった彼を非難し、またそれに乗せられた牛乳のように、無防備な赤ん坊のように、ただ軍馬に身を任せることしか出来なかった為に傷つくことしか出来なかった自分たちの状況を嘆き、これらに腹を立てているのです。

2011年12月2日金曜日

マリ・デルーアントン・チェーホフ

オペラの歌姫のナターリヤ・アンドレーエヴナ・ブローニナは、ある時自分の小さな娘のことを思い浮かべながら寝室で横になっていると、突然玄関で急に粗々しいベルの音を耳します。それは彼の夫である、デニース・ペトローヴィチ・ニキーチン(マリ・デル)のものでした。そして彼はナターリヤの寝室を抜き足で歩いたかと思うと、彼女に空中楼閣のような、金儲けの話を聞かせるのでした。これには彼女もうんざりして、彼を煙たがり、そこから出ていくよう促します。ですが、それでもマリ・デルは話をやめようとはせず、「お前にあ分らないが、僕の言うことあ本当なんだ」となかなか話をやめようとはしません。一体、彼のこの根拠のない自信はどこからきているのでしょうか。
この作品では、〈現実を無視して、理想の自分だけを見ているある男〉が描かれています。
まず、私達は多かれ少なかれ、現実に存在する現在の私達と、自分の頭の中に存在する理想の私達の間に挟まり、後者に近づくよう努力しています。そうして私達は時には、少し近づき嬉しくなり、また時には自分の実力の無さから、理想が遠いものに感じ落胆するものなのです。
ですが、物語に登場するマリ・デルという男はどうでしょうか。少なくとも読者である私達の目には、彼はこうした葛藤とは無縁であり、根拠ない自信を振りかざし周りに迷惑を欠けている不潔な人間としてうつることでしょう。それもそのはず、彼ははじめから現実を見ていないのです。単に彼はそれを無視して、頭の中の理想の自分に酔っているに過ぎません。だからこそ彼は、ナターリヤにいくら「まあ有難い! さ、さっさと出て行って頂戴! さばさばしちまうわ。」等と煙たがられようと、暫くすると、ケロッとしていられるのです。マリ・デルの頭の中では、彼女はお金が絡まない限り、自分の事を愛していると思っているのですから。
ところで、彼の事を散々ひどく軽蔑してきた私達ですが、実は私たちの中にも、一時的ではありますが、こうした現実を無視して、理想の自分に酔ってしまうという現象はしばしば起こることがあります。例えば、あなたがカラオケで、好きなアーティストの唄を歌っている時、例えばあなたがクラブで気持ちよく踊っている時、あなたはそうしたアーテイストや一流のダンサーになったような心持ちで歌ったり踊ったりしたことはないでしょうか。確かに物語の中のマリ・デルは、こうした性質が出すぎたために、こうした不潔な人物になっているわけですが、こうした性質が私たちの中にも備わっていることも忘れてはいけません。