2011年4月9日土曜日

女人創造(修正)


 「男と女は違うものである。」というごく当たり前の命題から、この作品ははじまります。と、いうのも著者は自身が作家であるために、違うものとは分かっていても、それを描かなければならない矛盾に悩まされています。そこで、著者はここで男である彼が女を描く手法を2つ挙げています。ひとつはドストエフスキイやストリンドベリイのように、女装をして理想の女性を描く理想主義的な方法。著者もこの手法を採用しています。そしてもうひとつは、秋江のように本当の女性を描こうとする、言わば現実主義的な方法を挙げています。ですが、著者は現実的な女性は男性読者にとってはつまらないものであり、理想的な女性の方がかえって彼らは反応する(自分が実は女性的な性格なのではないかという錯覚等)というのです。一体何故このような現象が起きてしまうのでしょうか。
 この作品では、<限られた範囲の中でしか現実を見ることができない読者の性質を利用した、著者のある作家としての手法>が描かれています。
 まず、私たちは現実の世界の出来事を見て、そして自分の頭の中に世界の像というものをつくりあげています。ですが、現実の世界を自分の頭にそのまま写すことはできません。私たちは限られた範囲の中でしか、現実をとらえることができないのです。ですから私たちは仕事で失敗をしますし、聞き間違いや言い間違いをします。
そしてこの私たちの性質を、著者はよくとらえ利用した手法を採用していると言えます。何故なら、現実を一定の限界の中でしかとらえられないのなら、当然異性のことも限られた限界の中でしかとらえることができないからです。例えば男性である私たちは、少年時代に美しい女性を見て、美しい女性はなんの努力もせず、はじめから美しいのであると考えたことがあるのではないでしょうか。ですが青年になるにつれて、女性はすね毛を剃ったり、また眉毛をかいたりと弛まない努力によってその美しさを保っていることを知り、少年時代に考えていたことは幻想であったということを思い知ったことでしょう。
そして小説は女性の中身が描かれています。外見ですら、女性に対して間違った認識を持っていた私たちです。ましてや目には見えない女性の内面に私たちは多くの幻想を抱いているはずです。だからこそ、男性読者を対象に女性を描くとき、その女性が現実的過ぎて読者の認識から離れ過ぎては、面白くないように思い、むしろその逆は面白く感じるのです。
さてここまで話をすすめると、最後にある疑問が残るはずです。それは、「一体何故、秋江などの男性作家は一般の男性読者よりも現実の女性を知っているのか」ということです。それは彼らが常に、人間の内面に問題意識を向けているからなのです。例えば、ある塾講師は、生徒と少し話しただけで、その生徒がどのような家庭環境で育ち、これからどのように成長するのかがわかるといいます。またある整体師は患者の背中を少し触っただけで何処が悪いのか、また何故そうなったかまでわかるといいます。何故なら彼ら専門家は日頃から問題意識を持ち生活することで、自分たちのそういった技を常に磨いています。上記の塾講師は常に生徒のためを考え(その生徒をいかにして伸ばすか、今の指導法はこれでいいのか等)、日常を過ごしているといいます。確かに私たちは限られた範囲でしか現実をみることはできません。しかし、何らかの問題意識を持ち日常を過ごすことで、今まで見えなかったものが徐々に見えはじめ、自分の認識の限界をひろげていくことができるのです。

1 件のコメント:

  1. コメントしておきました。
    今回はバックリンクを使っていません。

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