2011年4月20日水曜日

首が落ちた話ー芥川龍之介

清国の軍人である何小二は、味方の陣地から川一つ隔てた、小さな村の方へ偵察に行く途中、黄いろくなりかけた高粱の畑の中で、突然一隊の日本騎兵と遭遇し戦闘をはじめます。その戦いの最中、彼は不覚にもある日本騎兵に首を斬られてしまいます。そして彼は馬に跨り戦場を駆けようとするも、途中で落馬し正気を失っていきます。その中で何小二は、自身のこれまでの人生の走馬灯を垣間見て、「もし私がここで助かったら、私はどんな事をしても、この過去を償うのだが。」と、これまでの人生を虚しくひどいものとして後悔しだします。
ところが彼は自身の怪我が治ったかに思うと、次第にもとの生活に戻ってしまいます。その挙句、某酒楼にて飲み仲間の誰彼と口論し、遂に掴み合いの喧嘩となった末に、その騒動で完治していなかった傷口が開きはじめ首がおちてしまいます。
一体彼は何故斬られた時はこれまでの人生を後悔していたにも拘らず、また同じ過ちを繰り返してしまったのでしょうか。
この作品では、〈有限である人生を無限に等しいものと勘違いしてしまったある清国の軍人〉が描かれています。
この問題を解くに当たって、まず何小二は日頃、それもいつ死ぬか分からない戦場でどのような心持ちで過ごしていたのかということか鍵となります。「万一自分が殺されるかも知れないなどと云うことは、誰の頭にもはいって来ない。そこにあるのは、ただ敵である。あるいは敵を殺す事である。」の文章から分かるように、何小二を含めた軍人はなんと死というものが蔓延している戦場で、なんと自分だけは殺されないと考えているのです。そして何小二はいざ自分が死にかけてみると、「人間はいやでもこの空の下で、そこから落ちて来る風に吹かれながら、みじめな生存を続けて行かなければならない。」と、自分の命にも限りがあることを知り、それまでの自分の行いに関して恥か感じ出していくのです。その後、彼は自分の傷を自覚している間は自身の反省に従ってその日その日を過ごしていました。
ですが、首が徐々に回復していくにつれてその反省も薄れ、やがてもとの生活にもどってしまいました。この時、彼は死が自身から遠のいた心持ちがしたことでしょう。つまり何小二は怪我が治ってしまえば、またいつもの生活が今日も明日も続くと感じたのです。すると、彼は自身の生活はほぼ無限に等しく続くと思い込み、「どうせ明日も明後日もくるのであれば、今日くらいは」と考えていくうちに戦場での反省を捨て、今までの自分に引きづられていったのです。そして、二回目の反省の瞬間はその後すぐにやってきます。それが某酒楼にての出来事です。しかし、今度はいくら反省してももう遅いのです。彼の癒えたと思っていた傷は開き、彼に死をもたらしてしまったのですから。こうして彼は自分の反省を生かすことなく、人生を終えてしまったのです。
確かに私たちの人生は、実感の上では無限に感じる程長いものですが、誰に対しても終わりはいつか必ずやってきます。それを戒めていかなければ、彼のように「どうせ明日も明後日も来るのであれば今日くらいは」と考えてしまい、ずるずるとその日その日に引っ張られてしまうのです。

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