著者は辰野隆の「仏蘭西文学の話」という本の中のある逸話について、興味を惹かれています。その逸話とは、兎の目を移植された盲目の女性が視力を持ち、更に奇妙なことに目を移植されてその後、彼女は猟夫を恐れるようになったというのです。この問題に対して著者は、「兎の目が彼女を兎にしたのでは無くして、彼女が、兎の目を愛するあまり、みずからすすん で、彼女の方から兎になってやったのである。」という結論を出しました。さて、一体これはどういう事なのでしょうか。
この作品では、〈物質の特性を積極的に自分に取り込むことによって、物質そのものになりきってしまった女性達〉が描かれています。
まず、この作品で著者は人間の物質から精神に影響を与え、更にそれが自身の行動や体に影響を与えているところを見ています。その中で彼が着眼しているのは、精神の働きが強く働き、上記の流れをつくっているということです。著者は兎の逸話での自分の回答を確かなものにするために、この他にタンシチューを食べるようになった為に英語の発音が上手になった女性や、狐の襟巻きをきると突如狡猾な人格になる女性の逸話を載せています。これらのどの逸話にも共通することは、「このタンシチューを食べればLの発音が上手くなれる」、「私はこの兎の目があるからこそ、世界を見ることが出来るのだ」等と物質に深い思いを感じ、自分が意図せずとも物質そのものを自分の精神、つまり認識の中に物質そのもを取り入れようとしていることに他なりません。そして著者の鋭いところは、ここから更に話をすすめて「狐は化ける動物では無いのだ。買いかぶりも甚しい。そのマダムもまた、狐は人をだますものだと単純に盲信しているらしく、誰もたのみもせぬのに、襟巻を用いる度毎に、わざわざ嘘つきになって見せてくれる。御苦労なことである。」と、物質の像を自分の中で勝手につくりあげて、それに自分の精神が同化している、ということに注目している点にあります。つまり彼女たちのこの異常な行動や、肉体の変化は物質が直接絡んでいるのではなく、物質に自分の精神を投影させて、それをまた更に自分の精神に取り入れなおすという高度なことをやってのけているのです。
以上のことから彼女たちの異常な行動や変化は、物質は単なるきっかけでしかなく、それよりも彼女たちの精神の働きがこの奇妙な現象を自らつくり出していることが理解できるでしょう。
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