2011年4月24日日曜日

恥ー太宰治

 ある時、和子は小説家である戸田に対して手紙を二通書きました。その手紙の内容は、一通目では戸田という小説家は、無学で、ひどく貧困、下品で不清潔等といった、著者への誹謗中傷が書かれています。そしてこの手紙を書くことによって、彼女は戸田に真っ当な小説家の道を歩んでほしいと望んでいました。
そしてその後日、戸田は新しい小説を書きました。その小説の中に出てくる登場人物が、なんと和子という名前の二十三歳の女性が登場するではありませんか。ですが、これらのことは彼女が手紙には書いていない情報だったのです。彼女は自身と共通点が多いことを理由に、この登場人物が自分自身のことをモデルにしているのだと考え、更には、『みだらな空想をするようにさえなりました。』という一文から、著者は彼女の心情を見抜いていると推察し、それらを「驚異的な進歩」と讃えています。そしてこれらの思いを戸田に伝えるべく、再び筆をとり彼に手紙を送ったのです。
二通目を送り四、五日経つと戸田から和子への手紙の返事が届きました。そして戸田の手紙を受け取った後日、彼女は急に彼に逢いたくなり、戸田の家を訪れることにします。そして彼女は彼と対面することによって、彼に対して幻想を抱いていたことを知るのです。
この作品では、〈自身が相手というものを解釈してしまったことによって恥をかいてしまった、ある女性〉が描かれています。
結論からの述べると、戸田という小説家は彼女の考えていた人物とは全く異なり、学があり清潔そのもので立派に生計を立てている人物でした。そして彼女のことは一切知らず、小説の中に出てくる登場人物と和子との関連性は全くの偶然であり、和子の勘違いに過ぎませんでした。そして彼女は自身の失敗を認める反面、著者を逆恨みしてしまいます。
さて、では彼女の失敗とはどこにあったのでしょうか。まず、和子は戸田の事を彼の作品をとおして、彼という人物を知ろうとしています。こう書けば多くの方は、「それらな自分もやっている」と思うことでしょう。ですが彼女の場合、論理的に彼という人物を見極めて彼の像をつくっているのではなく、「私の気持まで、すっかり見抜いて、『みだらな空想をするようにさえなりました。』などと辛辣な一矢を放っているあたり、たしかに貴下の驚異的な進歩だと思いました。」などというように、表面的な表現を勝手に解釈して彼の像をつくっています。この二つの捉え方には、言うまでもなく大きな差が生じてきます。作品を読むときなどで言えば、前者の場合、比較的正確にものごとを捉えることができ、作品の中にある著者の主張、考えなどを見抜くことも出来ます。ですが後者はどうでしょうか。後者の場合、著者の主張、考えなどは一切関係なく、表面的なものを捉え、更に恐ろしいことに、その表面的な部分をもとに著者とはまた違った主張、結論を作品に見出してしまいます。和子の失敗はまさにここにあります。そして彼女は、今までこうした見方で世界を見ていたために、著者の主張や考えを読み取れず、ただ単に著者が嘘をついているようにしか感じられなかったのです。

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