2011年4月19日火曜日

神神の微笑ー芥川龍之介

 天主教の布教の為、日本にやってきたオルガンティノは、日本という国自体に何か不安を感じている様子。彼曰く、何か人には見えない霊のような存在を感じるというのです。
そんな彼はある日、南蛮寺でゼウスに祈祷を捧げていると、突然祭壇のあたりから、けたましい鶏鳴が聞くことになります。彼は周囲を見回すと、彼の真後ろに鶏が一羽、祭壇の上に胸を張って立っていました。そしてその直後、何処からともなく多くの鶏が出現し鶏冠の海をつくり出します。そうかと思えば、今度は日本の神神が現れ、天照大御神と話し始めたではありませんか。そしてオルガンティノは怯えながらも、その神神の会話に耳を傾けます。すると神神の話では、天照に勝ちうる神が出現したので賑やかにしているのだというのです。これに対し天照は自分の力を他の神たちに見せつけ、再び自分の力が絶対であることを示しました。このやり取りを聞いていたオルガンティノは、「この国の霊と戦うのは、思ったよりもっと困難らしい。勝つか、それともまた負けるか、——」とゼウスの勝負の行方を思案していました。と、そこに何者かが彼に対して、ゼウスは負けると告げてきました。彼は何者で、一体何故ゼウスは負けると考えているのでしょうか。
この作品では、〈日本人のゼウス像と南蛮人のゼウス像にギャップを感じているある司祭〉が描かれています。
まず、オルガンティノに話しかけてきた人物というのは日本の国の霊であり、彼はゼウスの敗因を次のように語っています。

「ただ気をつけて頂きたいのは、本地垂跡の教の事です。あの教はこの国の土人に、オオヒルメムチは大日如来と同じものだと思わせました。これはオオヒルメムチの勝でしょうか? それとも大日如来の勝でしょうか? 仮りに現在この国の土人に、オオヒルメムチは知らないにしても、大日如来は知っているものが、大勢あるとして御覧なさい。それでも彼等の夢に見える、大日如来の姿の中には、印度仏
の面影よりも、オオヒルメムチが窺われはしないでしょうか?(中略)つまり私が申上げたいのは、泥烏須のようにこの国に来ても、勝つものはないと云う事なのです。」

つまり彼の主張では、人はある新しいものを目のあたりにした時、自分の頭、或いは身の回りの環境から似た材料を探し出し、その像を形成します。ところがその像とは本来あったものとは違うものではないのか、ということです。ですが、この問題の誤りはあれか、これかで考えてしまうところにあります。物事とは、ある一定の条件の中では正しいのですから、そこをしっかりとおさえておけば容易に解決するはずです。例えば、私たちがよく夕食に口にするカレーですが、私たちの一般常識で考えれば、辛いルウとご飯かナンがあれば、それはカレーという食べ物ということになります。ところがインドにいくとカレーとはおかず全般を指すことになります。ここで問題なのは言葉の範囲です。例えばあなたが日本とインドのレストランで「カレーを下さい」と注文すると、その店のウエイトレスはどのような反応をするでしょうか。日本の中でカレーと言う言葉を使えばある程度限定できますが、インドではそうはいきません。カレーというと範囲が広すぎるので、ウエイトレスは当惑することでしょう。もう少し限定する必要があるのです。
そしてここで重要な範囲というものは、そもそもゼウスの形の像ではなく、ゼウスの教え、教義にあったはずです。例え姿形が違っていても、その教えがしっかり伝わっていれば日本人の中には、しっかりと天照ではなく、ゼウスという像が根付いているということになるのです。

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