日本の近代文学の原型は、成島柳北(りゅうほく)の柳橋新誌(明治7)などの戯作やつしの文学、所謂洒落本、談義本でした。それが西洋からきた改良主義の流れ、またその流れの影響を受けた外山正一や坪内逍遥(しょうよう)等の知識人達により、日本の文学は庶民の手から離れ、より芸術的な意味合いを強めていきます。
そうした文学上の大きな変化から明治18年に誕生したのが、『小説神髄』(坪内逍遥著)でした。この無償の文学性を理論化し、その理論を創作方法とする知識人の出現を明確にした『小説神髄』の存在は、二葉亭四迷や森鴎外等、後の文学界を担う人々に大きな影響を与えました。というのも、四迷に関して言えば、彼の傑作である『浮雲』(明治18)の一部は逍遥との共著ですし、鴎外に関して言えば、後に登場する2つの大きな文学的主流派の将来をかけた論争をするきっかけとなったのですから。
やがて『小説神髄』後から登場した作家たちは、現実をありのままに模写、再現を創作方法とする〈写実主義〉なる系譜を築いていきます。そして〈写実主義〉は悲惨小説、観念小説、政治小説など様々なジャンルを生むことになりますが、形式主義による傾斜を免れる事ができず、衰微していきます。
そんな『小説神髄』からはじまる〈写実主義〉が行き着いた場所こそ、ゾラの実験小説論を適応した〈前期自然主義〉でした。ですが、その適応が性急すぎた事と、作家主体が未成熟だった為に、結果この系譜から日本の散文精神は生まれることはなく、通俗小説へと傾斜していってしまったのです。
しかし、この当時には〈写実主義〉以外にも大きな主流派が登場することになります。それこそが森鴎外からはじまる、〈浪漫主義〉です。これはドイツに留学した鴎外が日本に持ち帰ったもので、秩序と理論に反逆する自我尊重、感性の開放を主情的に要求する、というものでした。また鴎外は、坪内逍遥に対し、ロマンティシズム抜きのリアリズムにはじまった近代文学の動向に対して、ロマンティシズムからの強力な訂正要求を行います。所謂没理想論争(明治25~26)です。この論争の後、〈写実主義〉は上記にもあるように、ロマンティシズム抜きにはじまった日本文学のひとつの限界を迎え、衰微していきました。
一方浪〈浪漫主義〉は、作家たちの自己転身により、主情性を基本とする〈後期自然主義〉をおこすことになります。これは〈前期自然主義〉とは、〈写実主義〉からはじまっていないこと、ゾラの実験小説論を適応していないことから、全くの別物です。そして彼らの代表的な作品と言えば、真っ先に島崎藤村の『破戒』(明治39)が挙げられます。『破戒』は出生の秘密を負う青年知識人の苦悩する内面に光をあてたもので、散文の未来に大きな可能性を残しました。ですがその未来は、作者自身の手によって塞がれてしまいます。その一年後に登場した田山花袋の『蒲団』は、その大胆な告白手法によって、多くの反響を呼びました。そして藤村もその作者の影響を避ける事はできませんでした。こうして明治の後期におこった〈自然主義〉は、作者たちの実生活の赤裸々な告白を創作方法とした風俗小説へ転落していったのです。
そんな〈自然主義〉が急速な発展と転落を迎えた頃、そのあり方に意義を唱えはじめた作家たちが多く出現したのもこの時期でした。こうして文学の主流は、北原白秋の「昴」、永井荷風の「三田文学」、夏目漱石を師事する「木曜会」らの〈反自然主義〉の人々の手に渡りました。この中でも、漱石の「木曜会」は特殊なものでした。明治の文学青年たちの文学上の進路として、日本文学をしたければ〈自然主義〉、西洋の文学をしたければ、「三田文学」や「昴」などの〈反自然主義〉といった選択肢がありました。ところが「木曜会」はこのどれにも属しません。そもそも「木曜会」とは、正岡子規からなる〈写生文〉を継承した漱石の強力な個性が引力となって、人々をひきつけて成り立ったものなのです。そしてこの強力な個性の周りには、その後日本独自の文学を生んだ芥川龍之介、文藝春秋の創始者となる菊池寛、心境小説を完成させることになる志賀直哉などの強力な個性が集い、或いは影響を受けていき、その後の文学を担うことになっていったのです。
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