むかしあるところに、3人の息子をもった、貧乏な粉ひきがありました。やがて男は死に、息子達は財産をそれぞれ分配されます。ですが兄たちが風車とロバといったような実用的な遺産を相続したのに対し、末の息子だけは一匹の、一見あまり役にも立ちそうにない猫を相続する事になってしまいました。こうしてつまらない財産を相続してしまった末息子は、途方に暮れてしまいます。するとその様子を見ていた猫は突然、自分に一足の長靴をこしらえて貰えれば彼をお金持ちにすることができると言い始めました。末息子は半信半疑なものの、猫の言うとおり長靴をくつってあげることにしました。
こうして猫はたった一足の長靴を貰ったことにより、末息子をお金持ちにさせていきます。では、猫は一体どのような方法を用いて末息子を成功に導いていったのでしょうか。
この作品では、〈人は自分の事になると、本質的価値を気にするが、相手の事になると、外見的価値を気にするものである〉ということが描かれています。
シャルル・ペローという作家は作品をつくるにあたり、予め教訓、つまりここで言う一般性を設定して創作しています。そしてこの作品においても、彼は下記の2つの一般性を作品の末尾に書いています。
①父親から息子へと贈られる
豊かな財産を受け継ぐのが
いかに恵まれたこととはいえ、
ふつう若者にとって、
世渡りの術とかけひき上手が
もらった財産より役に立つ。
②粉ひきの息子が、これほど早く、
王女さまの心をとらえ、
恋わずらいの目でみつめられたからには、
衣装や顔かたちや若さが、
恋心を吹きこむのに、
無関係ではない証拠。
(※ちなみにこの2つの教訓は、青空文庫から引用したものではありません。詳しくは岩波文庫の『完訳ペロー童話集』(新倉朗子訳)を参照して下さい。)
そしてこの2つの一般生の繋がりを見ながら作品を読み返し、新たな一般性として挙げたものが上記の括弧書きにあたります。では、一般性①、②がどのような繋がりを持ちどのような事を述べているのか、作品を振り返る中で確認して行きましょう。
はじめに一般性①ですが、一見するとこれは単なる末息子と猫との姿勢観の違いを論じているように見えるのではないでしょうか。成程、確かに末息子は、自分は貧乏で兄たちよりも劣った財産を相続した事からと途方に暮れていました。一方の猫はそうした状況を冷静に判断し、その巧みな演出と演技で彼を本当のお金持ちにしてみせました。
長靴を貰った猫は、早速兎を捕まえ殺し、王様に献上しにいきます。その際猫は、自分はカバラ侯爵(末息子)の言いつけで兎を持ってやってきたのだと言いました。また王様と王女様が川に遊びに来た時、猫は末息子を川に浸からせました。そして傍を通った王様たちには、カバラ侯爵が身体を洗っている最中に泥棒に襲われたのだと説明します。するとこの話をすっかり信じ込んだ王様は末息子に立派な着物を与えました。
このようにして、猫は「本質的」には貧乏である末息子を、「外見的」には裕福なカバラ侯爵に仕立て上げ、やがて「本質的」にも裕福な人物へと出世させていったのです。ここまで話を進めてみると、一般性①の見方もまた違った形で見えてくるのではないでしょうか。人は末息子のように、「本質的」には貧乏だからとくよくよしがちですが、世渡りの術とかけひき(外見的価値を高める事)によって、出世することが出来るのです。
またこの理由は、一般性②によって示させています。つまり「本質的」価値を気にしているのは当人ばかりで、他人は「外見的」な価値を気にするものなのです。これは私達にも頷ける話ではないでしょうか。一流の職人から見れば、お粗末な機能をもった鞄やメガネケースでも、一流のブランドのロゴが入っていればそれなりの価値があるように見えるのも、私達にそうした性質があるためです。これと同じように、作品に登場する女王様、王様も末息子がどのように貧乏であったとしても、彼の「侯爵」というブランドネームに惹かれ、猫の演出と演技を信じた為に、王様は末息子に王女様との結婚を申し出、王女様も彼を魅力的に感じ結婚しました。
本当の自分の価値などを気にしているのは自分ばかりで、他人はそうではなくその見え方ばかりを気にしているものなのです。
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