2013年1月16日水曜日

橋の下ーフレデリック・ブウテ(森鴎外訳)

 お気に入りのものを相手に見せて、あまり芳しくない反応が返ってきて、少し恥ずかしい思いをしてしまった、という事は多くの方が少なからず経験している事だと思います。しかし以下のような反応が返ってきた時、あなたならどう思うでしょうか。
 ある時、私も他の方がそうするようにさりげなく、ある友人に当時買いたてだった財布をみせました。その財布というのは、トランプが何枚か重なっているような絵柄をしていて、少し変わったデザインをしており、私自身そうしたところが気に入っていました。ところが友人は私の財布を裏表と返しながら、少しの間まじまじと見た後、「安い」と一言。そして以降はその財布について、何も述べる事はありませんでした。一応ことわっておきますと、その友人の「安い」とは値段のわりにつくりが安いだとか高いだとか言うことではなく、素材やブランドが「安い」という事を言っているのです。そしてその言葉を聞いて、私は友人と自分とのものの見方に、大きな隔たりを感じずにはいられませんでした。
 今回は、そうしたあるものの見方にまつわる話を扱っております。

評論
 片手をあえて袖に通さず人の同情を買い物乞いをする乞食、「一本腕」は、ある橋の下で、身なりの汚い1人の痩せ衰えた老人と出会います。そして「一本腕」はその老人と話していくうちに、彼が世界に2つとないダイヤモンドという宝石を持っていることを知るのです。それを知った「一本腕」はどうにかしてその宝石を売り、大金を老人と山分けしようと考えはじめます。ところが老人自身、そうした考えは一切ありません。それどころか、彼は誰にも渡さずそれを持ってそのまま死のうといているのです。やがて老人は、「一本腕」が自分のダイヤモンドを狙っている事を知ると橋の下を離れ、次の寝床を探すため、深く積もった雪の道を破れた靴で歩いて行くのでした。

 この作品では、〈ダイヤモンドの価値を理解しすぎるあまり、かえってかつえ死ぬ道を選ばなければならなかった、ある老人〉が描かれています。

 あらすじを見て頂くと理解できるように、この作品は「一本腕」と老人とのダイヤモンドの価値観の違いによって成り立っています。「一本腕」は老人が持っているダイヤモンドを金銭の対象、つまり道具としての側面から見ているのです。ですから彼の目的意識は、ダイヤモンドをいかにして自分の生活に用いるか、お金にするかというところにあります。
 一方、老人の方はどうでしょうか。彼は「一本腕」とは対照的に、ダイヤモンドを売ろうとはせず、寧ろその美しさを楽しんでいる節があります。彼はダイヤモンドを鑑賞物としての側面から見ています。つまり老人の目的意識はダイヤモンドを使うことにはなく、見ること、所有することそのものにあるわけです。
 また老人の不幸は、まさにダイヤモンドの価値をそうした道具意外のところに見出してしまったところにあります。というのも、この老人というのは身なりや生活を考えると、とても裕福だということはお世辞にも言えません。寧ろ私達が彼の立場なら、「一本腕」のようにダイヤモンドを売ることを考えることでしょう。しかしそうした環境にあるにも拘わらず、あえてしない程に、老人はダイヤモンドに鑑賞物としての価値を見出しています。そして老人のそうした姿勢が私達に、ダイヤモンドの価値が老人程に分からないながらも、崇高めいたものを感じさせているのです。

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