2011年10月23日日曜日

牛ー岡本綺堂

 ある時、青年は老人に「来年は丑だそうですが、何か牛に因んだようなお話はありませんか。」と訪ねました。すると老人は、ある牛と新年と芸妓の三題話を話しはじめます。
天保3年、1月2日。日本橋の正月は多くの人で賑わっていました。そこにある騒動が起こりました。その朝、京橋の五郎兵衛町から火事を出して、火元の五郎兵衛町から北紺屋町、南伝馬町、白魚屋敷のあたりまで焼いてしまいました。ですがこれは火消しによって消されましたが、その帰り路の火消しの威勢の良さに対して、牛車に繋がれていた牛達が驚いてしまい、その中の2匹が暴れだしてしまったのです。そのうちの一匹は、昌平橋のきわでどうにか捕まえることが出来ましたが、もう一匹は人間に追い込まれた挙句、なんと川を泳いでの逃亡を謀りました。そして、その川には柳橋の小雛という芸者が乗っている船がありました。やがてこの牛は小雛の船に接近し、それに動揺した彼女は船から落ちてしまいます。溺れた彼女はそこに浮いていた牛の角を必死で持ち続け、やがて無事岸へと辿り着くことができました。
そしてその4年後、小雛は盗人の秩父の熊吉と、彼の罪業の為にひとまず奥州路に身を隠すことになりました。ですが、その途中の大橋で、小雛は急に立ちすくんでしまいます。それを不思議に思った熊吉が彼女に問うと、一、二間さきに一匹の大きい牛が角を立てて、こっちを睨むように待ち構えているというのです。しかし熊吉の目には何も見えていません。結局、彼らは小雛が動けなくなったことが原因で、あえなく御用となってしまいます。
さて、では彼女が見た牛の正体とは、一体何だったのでしょうか。
この作品では、〈精神の世界と現実の世界との区別ができなった、当時の人々の認識〉が描かれています。
まず、下記の一文はこの作品における要諦を示しているものです。
「今の人はそんな理屈であっさり片づけてしまうのだが、むかしの人はいろいろの因縁をつけて、ひどく不思議がったものさ。」
この一文は、老人が小雛の話を終えた後、青年が、小雛が見たものは「この危急の場合に一種の幻覚を起した」ものであるという主張に対して述べたものです。
そもそも青年の主張というのは、彼女が見た牛とは、異常な状況の中で、彼女が4年前の騒動の経験から自分の中に生み出したものであり、現実には存在していないものであるというものです。つまり彼はそれは精神の世界の出来事であり、現実の世界の出来事ではないと述べているのです。これには同意を示しています。そして老人は、彼の言葉に付け足すような形で、昔の人はそうは考えず、彼女が見たものを見たままに受けとめた為に、色々な因縁をつける必要があったのだと述べているのです。つまり、昔の人々は精神の世界の出来事と、現実の世界の出来事を区別出来なかったのです。
では、彼らは何故、その区別をつけることができなかったのでしょうか。その大きな要因の一つは、やはり化学が現在のように発展していなかった事が挙げられるでしょう。例えば、私達が病気にかかった時、私たちはこれまでの知識から、どここからか細菌を体の中に入れてしまったことや、体の何処かに負担をかけた為にそれが起こっていると考え、そこから予防策として生活習慣の見直し等を図ろうとします。ところが、細菌等のそういった言葉や知識を知らない昔の人々は、それが何故起こっているのかを理解することが出来ず、結局精神の世界から、悪魔や悪霊といったものをつくりだし、そうして現実の世界の出来事である、病気に至るまでの過程を埋めなければならなかったのです。こうして現実の出来事を精神の世界で埋めることによって、その境界は曖昧になり、やがては区別できなくなったいったのです。ですから、物語の中の小雛の話も、江戸の人々はおのおのの空想によって、牛の出現という奇妙な現象を受け止めるしかなったのです。

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