2011年7月29日金曜日

尼になった老婆ー田中貢太郎

 それは「手前」がまだ独身で、棒手振を渡世にしていた時分のことです。この時、界隈では東本願寺の門跡様が、久し振りに御下向に来れれるという話が広まっており、信仰深い人々は御駕籠の中にいる門跡様をどうにか見れないものかと集まり賑わっておりました。
そこに背の高い老婆が、がむしゃらに人を突き退けるように前へ出てきました。そんな彼女の様子を見て、「手前」は「彼女には何か仏罰が与えられるはずだ」と考え、その老婆の行方を目で追います。そしてこの老婆は「手前」の考えていたとおり、後にとんでもない行動に出てしまった為に仏様から「仏罰」をうけることになってしまうのです。では、彼の感じてる「仏罰」とは果たしてどのようなものなのでしょうか。
この作品では、〈物事の原因をつきとめられなかったために、事実を解釈してしまったある男〉が描かれています。
まず、この老婆は人をかき分け門跡様の御駕籠の前まで行くと、なんと自らその中へ入っていくではありませんか。しかし、門跡様は彼女を煩がり、後ろへ突き飛ばしました。ですが、遠くで見ていた者にはその詳しい様子が分からず、門跡様の手が老婆の頭に触れたことだけを確認し、「ありがたいことだ、ありがたいことだ」と言って老婆の髪を一本一本ちぎっていき、やがてはその頭は尼のような姿になってしまいました。以上がこの物語の全貌です。
ところでこの中で「手前」が使っていた「仏罰」という言葉ですが、彼はこの言葉を私たちが極稀に感じたことのある、「悪い予感」、「殺気」などという言葉と似たような使い方をしています。では、そもそも私たちはどのような時にそれらの言葉を使い、どのようにそれらを感じているのでしょうか。例えば、その晩いつもはぐっすり眠れるはずなのに何故だか今日はそわそわして、何か落ち着かず眠れなかった男がいたとします。後日、母が入院している病院から、死亡したとの知らせがありました。その時彼は昨日なかなか寝付けなったことを思い出し、あれは「悪い予感」だったのだという結論を導き出します。そして彼は更に、では何故自分は何故母の死を感じ取れたのかを考えはじめます。すると、1週間前に病院のご飯を殆ど口にしていなかったことを担当医から聞いていたこと、母の口数はぐっと減り、目も何処か虚ろだったこと、最後に会った時には、母からいつもは臭わない妙な香りがしたこと等、次々と死ぬことを暗示するようなサインがあったことに気がつきます。この男はそういったサインから、感性的に母の死を感じ取っていたのです。
そして話を物語に戻すと、「手前」の場合も「仏罰」に対して上記のそれと同じ使い方をしています。彼は、老婆の並々ならぬ異常な行動、人々の尋常ではない熱気と信仰心。これらのサインを感性的に読みとり、こういう中で老婆が一人勝手なことをすれば、何か良からぬことがおこることをぼんやりと感じ、それを一言で「仏罰」と読んでいるのです。ですが、彼はあくまで自分の感性でこれを読み取っており、何故そう感じているのかを説明することはできません。そこで彼は、老婆の仕打ちを仏のせいにして、「仏罰」などという言葉を採用しなければならなかったのです。結局、彼は感性的には事実を正確に読み取ってはいたものの、その点と点を結べなかったために、事実を解釈してしまったのです。

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