晩秋の夜、音楽会もすみ、日比谷公会堂から、おびただしい数の烏が、さまざまの形をして、押し合い、もみ合いしながらぞろぞろ出て来て、やがておのおのの家路に向って、むらむらぱっと飛び立つ中に、ある無帽蓬髪の、ジャンパー姿で、痩せて背の高い青年の姿があります。彼は「ベートーヴェンを聞けば、ベートーヴェンさ。モオツアルトを聞けば、モオツアルトさ。」というよに、今読んだり聞いたりしたもの、会う人によって、自身の趣味をコロコロと変えていきます。果たして彼にとって趣味とはどのようなものなのでしょうか。
この作品では、〈自分自身を他の何かに委ねてしまった、ある青年〉が描かれています。
はじめに、上記の問いに答えるにあって、青年の行動原理にある、「◯◯と言えば◯◯、△△と言えば△△」という言葉の意味について考えていきましょう。まず、青年は数多の知り合いに会えば声をかけ、彼等の趣味趣向に自分を合わせていきます。ですが、一度だけ他人の趣味に自分を合わせなかった場面があります。それはある文学青年が声をかけた時でした。彼は文学青年に対して、「つまらん奴と逢ったなあ。酔っていやがる。」と、明らかにそれまで出会った人々とは違った印象を持ち、対応をします。ですが、文学青年の「今夜これから、残金全部使ってしまうつもりなんですがね、つき合ってくれませんか。どこか、あなたのなじみの飲み屋でもこの辺にあったら、案内して下さい。」という台詞を聞いた途端、彼の態度は一転し、文学青年への印象を「面のぶざいくなのに似合わず、なかなか話せる男」と改めているではありませんか。実は、彼は知り合いを見かければ声をかけていたのは、こうして他人のお金を目当てに食事をするためだったのです。つまり、彼はその利益(お金)を得るための手段として、彼は趣味を使い話を合わせていたのでした。だからこそ、彼にとって趣味そのものはどうでもいいのであり、その中身すらもころころと帰ることが出来たのです。
そして、この彼の趣味を手段として用いていることに、私たちは少なからず不快感を感じることでしょう。そもそも趣味とは言うまでもなく、手段として用いるものではありません。私たちが成長の過程の中で様々な影響を受け、やがてそこから好きなものとそうでないものが派生し、趣味と呼ばれるものになっていくのです。かなり極端な言い方をすれば、幼少期にお母さんと一緒に積み木遊びをした子供がいたとします。その子供は材木を扱うことに興味を示し、やがて自ら木で玩具をつくりだし、それが大人に近づくにつれて日曜大工という立派な趣味になっていくのです。このように趣味とは自分が歩んできた歴史が含まれているものなのです。ですが、そういったものがあるにも拘らず、一切取り払い「◯◯と言えば◯◯、△△と言えば△△」という論法を採用してしまっている青年に対して、私たちは不快感なり不気味さなりを感じずにはいられないのです。それは、それまであった自分の歩んできた歴史を排除し、他の何かに自分を委ねる行為なのですから。
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