2012年11月5日月曜日

セロ弾きのゴーシュー宮沢賢治

 ゴーシュは町の活動写真館の楽団でセロを弾いていましたが、その中でも演奏は一番下手で、いつも学長に叱られていました。 そんな彼がある夜中にセロを熱心に弾いていた時、一匹の三毛猫が彼の家を訪れます。猫はゴーシュの演奏を聞きに来て「あげた」ので、弾いて欲しいと言うのです。そこでゴーシュは家中の窓を閉め切り、自分は耳栓をして、「印度(インド)の虎狩」という曲を嵐のような勢いで弾きはじめました。それは猫も思わず扉の方へ飛び退く程の騒音でした。そうしてゴーシュは猫を散々いじめた挙句、家から追い出しました。
 ですが次の日の夜、ゴーシュのもとにまた別の動物がやってきました。それはカッコウで、この鳥は自分にドレミファを教えて「欲しい」というのです。そこでゴーシュは仕方なく、少しの間だけ付き合うことにしました。しかし、はじめの申し出とはあべこべに、カッコウはゴーシュのドレミファに対して指摘をはじめます。またゴーシュの方でも、自分よりもカッコウの方が音程が合っているような気がしてきました。そしてそう考えていくうちに腹立たしくなったゴーシュは、癇癪を起こしてカッコウを追い出してしまったのでした。
 その次の日、今度は狸の子供がゴーシュに音楽を習いにきます。そこでゴーシュは、はじめは例によって追いだそうとしました。しかし演奏を一緒にはじめてみると、狸の子供は小太鼓を叩いていたのですが、その演奏がなかなか上手でついつい楽しくなっていきます。そしてその夜は朝がくるまで、狸の子共と演奏しました。
 こうして、ゴーシュは動物たちと触れ合う中で、自分では知らず知らずのうちにセロの腕を上げていく事になるのです。

 この作品では、〈動物たちに音楽を教えていく事で、かえって自らと向き合い、その実力を高めていったある男〉が描かれています。

 結論から言えば、ゴーシュは動物たちと音楽を通して触れ合っていく中で、技術を磨き、最終的には自分の楽団の演奏会で活躍する事が出来たのです。そこで、ここではゴーシュが具体的に、どのようにして自らの技術を高めていったのか、彼と動物たちとの触れ合いを軸にして見ていきましょう。
 そもそも、彼ははじめ動物たちと触れ合う事に関して、どういうわけか嫌悪感を感じていました。そして動物たちの方でも、どういうわけか、ゴーシュに音楽を教えたがっている様子でした。ですから、はじめの三毛猫とのやりとりでは、そうした両者の「対立した」気持ちが見事に反発する形で表れています。つまり、三毛猫はゴーシュに音楽を教えたくって教えたくってたまらない(※1)のに対して、ゴーシュ本人は関わりたくなて関わりたくなくてたまらない(※2)。だから彼は、酷い演奏を猫に聞かせていじめた挙句に、追い出してしまったのです。
 そして次の夜にはカッコウがきました。カッコウは三毛猫とは違い、形の上ではゴーシュに音楽を教えてもらう、という方法で彼に音楽を教えようとしました。そしてこの作戦は成功の兆しを見せます。演奏をしていくうちに、ゴーシュは自分よりもカッコウの方が音程が合っているのではないか、と考えていくようになっていきます。
 ですが、ここでカッコウにとって、予期せぬ出来事が起こります。なんとゴーシュは途中で演奏をやめて、カッコウを怒鳴りはじめたではありませんか。そして怒鳴った彼に驚いたカッコウは、硝子へ激しく頭を何度もぶつけはじめます。流石にこのカッコウの様子を見かねた彼は、硝子を割って逃がしてやりました。しかし、一体何故彼はいきなりカッコウを怒鳴ってしまったのでしょうか。実は、この時点では、彼は自分の技術とまともに向き合だけの実力がなかったのです。仮にも音楽を教えている彼にとって、動物を見下している彼にとって、カッコウが自分よりも技術が下でなければ困ります。そこで彼は癇癪を起こし、カッコウを追い出してしまったのです。
 しかし、このカッコウの為に破った窓が、後に彼の内面を大きく変えていくことになります。というのも、彼は度々作中で壊れた窓を気にしています(※3)。彼は壊れた窓を見る度に、恐らく、自分の実力を認める事のできない未熟な自分を見ていたのでしょう。やがて、そうして窓を見ていく中で、そうした自分と向き合う心をつくり、それが動物たちとの触れ合いにも影響を与えていったのです。
 現に次の夜、狸の子供がゴーシュを訪ねてきた時、はじめはやはり追いだそうとしたものの、狸の子供の実力を認め、更に狸の子供から指摘されても素直に受け入れていました。
 更にその次の夜には、病に苦しんでいる野ねずみの子供の為に演奏し、更にはパンまで与えてやりました。
 そうして動物たちと暮らしていき、自分の楽団の演奏会を迎えた彼は、学長や他の楽団員達の信頼を勝ち取ります。そしてその夜、彼は再び例の窓から遠くの空を眺めながら、「ああかっこう。あのときはすまなかったなあ。おれは怒ったんじゃなかったんだ。」と言いました。この台詞こそが、彼が動物達と触れ合う中で、壊れた窓を度々見る中で、自分の技術と向き合う実力を身につけ、磨いていった何よりの証拠なのです。だからこそ、この作品の最後の一文であるこの台詞は、私達に強い印象を与えているのです。

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