2012年11月14日水曜日

千代女ー太宰治

 和子の日常は、叔父が彼女の綴方を文芸誌、「青い鳥」に投稿し一等を当選した事で一変してしまいます。母や学校の先生からは期待するような眼差しで見られ、仲の良かった友達は彼女を遠ざけるようになりました。そして和子の方では、そうした周りの人々の変化に反抗するように、文章を頑として書きませんでした。
 ですが周りの期待の目があまりにも大きかった為に、彼女は徐々に自分の運命を受け入れていき、やがてその為に苦しまなければいけなくなっていくのです。

 この作品では、〈自分が考える自分と、周囲が考える自分との葛藤の末、自分が分からなくなっていったある少女〉が描かれています。

 この作品の中で和子が悩んでいる問題とは、言うまでもなく、文芸誌に彼女の作品が掲載されてしまった事で、彼女が考える「自分の像」と彼女の周りの人々が考える、「彼女の像」とに大きな隔たりができてしまったというところにあります。というのも、それまで平凡に暮らしてきた和子は、自分の作品が掲載された後でも、あくまでそれまでの「平凡な自分」(※1)でしかありません。ところが、周りの人々は彼女の作品が文芸誌に載った事で、和子を「平凡な和子」としてではなく、「文才のある和子」(※2)として見るようになっていったのです。そして彼女は、自分がはじめから持っている「平凡な彼女」と、この人々がつくりあげた、「文才ある彼女」との間で苦しんでいます。
 ところがこの彼女の苦しみは、物語の終盤以降から徐々に変化を見せはじめます。和子は人々が自分に文章を書くことをすすめる中で、それを拒みながらも、やがてそうした意思に負ける形で、人々のそうした意思を受け入れていきました(※3)。
 ですが、この作品の最大の悲劇は、そうしてこれまで和子に文章をすすめていた人々が、彼女に対する印象を再び変えてしまっていったところにあります。人々は、彼女が文章を書くことを拒んでいる間に、冷静に彼女の文章と向き合うようになっていきました。そして改めて、彼女を「平凡な少女」として見るようになっていったのです。(※4)しかし、和子本人はこうした変化をどう見ているでしょうか。嘗ては自分を苦しめていた、人々の中の「文才ある自分」は確かに消えつつあります。ところが彼女自身、現在は本当はそうありたかった「平凡な自分」を諦め、そうありたくなかった「文才ある自分」の存在を受け入れてしまったので、再び「自分が考える自分」と「他人が考える自分」との間で、それまで以上に苦しまなければならなくなっていきます。
 こうして彼女は、自分は平凡な自分として生きれば良いのか、文才がある自分として振る舞えば良いのか分からず、気の狂う思いをしなければならなくなっていったのです。

※注釈

1・私はそれを読んで淋しい気持になりました。先生が、私にだまされているのだ、と思いました。岩見先生のほうが、私よりも、ずっと心の美しい、単純なおかた だと思いました。

私は息がくるしくなって、眼のさきがもやもや暗く、自分のからだが石になって行 くような、おそろしい気持が致しました。こんなに、ほめられても、私にはその値打が無いのがわかっていましたから、この後、下手な綴方を書いて、みんなに笑われたら、どんなに恥ずかしく、つらい事だろうと、その事ばかりが心配で、生きている気もしませんでした。

2・それから、また学校では、受持の沢田先生が、綴方のお時間にあの雑誌を教室に持って来て、私の「春日町」の全文を、黒板に書き写し、ひど く興奮なされて、一時間、叱り飛ばすような声で私を、ほめて下さいました。

それまで一ばん仲の良かった安藤さんさえ、私を一葉さんだの、紫式部さまだのと意地のわるい、あざけるような口調で呼んで、ついと私から逃げて行き、それまであんなにきらっていた奈良さんや今井さんのグルウプに飛び込んで、遠くから私のほうをちらちら見ては何やら囁き合い、そのうちに、わあいと、みんな一緒に声を合せて、げびた囃しかたを致します。

3・柏木の叔父さんだけは、醒めるどころか、こんどは、いよいよ本気に和子を小説家にしようと決心した、とか真顔でおっしゃって、和子は結局は、小説家になる より他に仕様のない女なのだ、こんなに、へんに頭のいい子は、とても、ふつうのお嫁さんにはなれない、すべてをあきらめて、芸術の道に精進するより他は無いんだ等と、父の留守の時には、大声で私と母に言って聞かせるのでした。(中略)今は、その叔父さんの悪魔のような予言を、死ぬほど強く憎んでいながら、或いはそうかも知れぬと心の隅で、こっそり肯定しているところもあるのです。

4・先日も私は、こっそり筆ならしに、眠り箱という題で、たわいもない或る夜の出来事を手帖に書いて、叔父さんに読んでもらったのでした。すると叔父さんは、 それを半分も読まずに手帖を投げ出し、和子、もういい加減に、女流作家はあきらめるのだね、と興醒めた、まじめな顔をして言いました。

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