ある日、子供たちは学校の先生から、人間の体は右と左では全く同じ形をしておらず、微妙な違いがあり、そのため目かくしをして歩くとまっすぐ歩くことができないのだという話を聞きました。ですが、この話をにわかには信じられなかった子供達は、早速野原に向かい、自分たちの体で実際にまっすぐ歩けるかどうかを試してみました。すると、やはり先生が言っていたように、なかなかまっすぐには歩くことはできません。そうしているうちに、子供たちの素朴だった疑問は、次第に誰がまっすぐ歩くことができるのかという競争心へと移り変わっていきます。そんな中、ただ一人、マサちゃんという男の子は見事まっすぐ歩くことに成功しました。これを見ていた他の子供達はまさちゃんに負けじと、彼に教わりながらまっすぐ歩く練習をはじめました。ところが、そんな彼も他の子供達にお手本を見せる為、もう一度歩いてみると、少し曲ってしまいました。マサちゃんはこれを横から吹く風のせいだと考え、「風にまけてなるものか。」と諦めず挑戦します。そうしているうちに、マサちゃんの耳には、彼を邪魔する風の音が「ばかー、ばかー」と聞こえるようになっていきます。はじめは彼もそんな事を気にはとめていませんでしたが、遂に我慢できなくなり、自らも「ばかー、ばかー」と、怒鳴りはじめてしまいます。この彼の異常な行動を心配しはじめた他の子供達は、彼を引きとめて家へと連れ帰りました。
こうして家に帰ったマサちゃんは、お父さんとお母さんに今日の出来事を話して聞かせました。すると、お父さんは笑いながら、「風は息なんだよ」と自然にある風に立ち向かうことへの馬鹿らしさを彼に話しました。そしてそんなお父さんに続くように、マサちゃんも息をついてさーッさーッと吹く風をみて「ばかな風だと」とばればれと笑いました。
この作品では、〈自然にある風を精神が宿った生き物のように考えている、子供の瑞々しい感性〉が描かえています。
この作品の終盤で、マサちゃんとお父さんは風とはどういうものなのかについて話し合い、それに立ち向かっていくことへの馬鹿らしさについて話していますが、2人の風に対する解釈が大きく違っている事に注目しなければなりません。では、この時の2人のやりとりを軸にして、具体的にどのようなところが違うのかを見ていきましょう。
まず、お父さんの方では、「風というものは、強くなったり弱くなったり、息をついて吹くから、その中をまっすぐに歩くのはむずかしいよ。」、「空気の息、神様の息、いろんなものの息……ただ息だよ」等という言葉から察するあたり、風というものはただ自然にそこに存在しているものであり、自然現象に過ぎないのだということを説明しているのでしょう。ですから、彼は我が子が風に対して、まるで同じ精神をもった生物のように考え、勝負を挑んでいたことそのものに対して笑っていたことになります。
しかし、一方マサちゃんの方ではどうだったのでしょうか。彼は、そうしたお父さんの話を聞いて、その後も尚、「ばかな風だな」と風を生物のように扱っているではありませんか。すると、彼はお父さんの話を一体どのように受け止め、風に対して馬鹿だと言っているのでしょうか。彼はお父さんの「空気の息、神様の息、いろんなものの息……ただ息だよ」を聴いて納得しているあたり、どうやら風は自分の意思で動いている訳ではないというところまでは理解していたようです。ところが、もともと風に精神が宿っていると考えている彼は、その考え事態を捨てきることは出来ず、恐らく風というものは自分から自由に吹いているのではなく、自分が息をして風をおこすように何者かによって息として吐かれ、自分の意思とは関係なく吹いているのだと考えたのでしょう。そして彼は、そうして自分の意思ではなく、誰かによって動かせれている風に対して、馬鹿だと言い、はればれと笑っていたのです。
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