2011年5月23日月曜日

眉山ー太宰治

 帝都座の裏の若松屋という、著者がひいきにしている飲み屋があり、その家には自称小説好きの通称眉山という女中がいました。彼女はその無知で図々しい性格のため、著者を含めた彼の友人たちに嫌われていました。ですが、そんな彼女の印象が一瞬で変わってしまう出来事が起こってしまいます。一体それはどういう出来事だったのでしょうか。
この作品では、〈今まで傍にいた人物が突然この世から去ると分かった途端、その人物に対する印象を変える、あるお客〉が描かれています。
まず著者は、それから暫くして体の体調を悪くしてしまい。十日程その飲み屋に行けなくなります。そして体の調子が戻ると、彼は飲み友達の橋田氏を誘って再び眉山の飲み屋を訪れようとします。ですが、彼はその時橋田氏の口から思いもよらぬ事実を耳にします。なんと眉山は腎臓結核で手の施しようもなく、静岡の父のもとに帰っているというではありませんか。そして更に驚くことにそれを聞いた著者は、「そうですか。……いい子でしたがね。」と今までの眉山に対する印象をがらりと変えたような発言をしています。一体これはどういうことでしょうか。
一旦物語を離れて、私たちの日常生活に照らし合わせて考えてみましょう。例えば、私たちの身の回りの家族や友人との関係の中にも、こうった感情の揺らぎは起こっているはずです。嫌いな友人が転校してしまう時、或いは自分の苦手な家族に死が迫っているとき、私たちもやはりこの著者とおなじような印象を少なからずもつでしょう。では、私たちはどうしてこのような印象をもつのでしょうか。それは、彼らが私たちの生活に強く根付いていればいる程、そういった感情は強く出ます。つまり私たちは、何も彼らがいなくなることのそれよりも、自身の生活の変化に対して、ある種の寂しさのようなものを感じているのです。そして、この寂しさからこの著者も私たちも、今まで幾ら疎ましく思っていた相手に対しても、「あいつはいい人だった」と印象をころりと変えているのです。このように、私たちがもつこういった印象は、他人を通して自身の生活の変化に対し感じたものなのです。

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