事件は三十五年前の、桜が散って、葉桜のころに起こります。「私」は二十歳のころ、中学校長の父と病弱な妹と共に住んでいました。妹はその頃、自身の想い人であるM・Tと文通を交わしていましたが、彼は妹の病気のことを知ると「もうお互い忘れましょう」と言って一通も手紙をよこさなくなったのです。そこで妹を哀れに思った「私」は、M.Tを装い、妹に手紙を宛てることを決意します。ですが、これはすぐに妹に見破られ、そして妹から予想だにしない言葉を聞きます。それは一体どのような内容だったのでしょうか。
この作品では、〈他人の幸福を願うも自身の欲求は願えない、信仰をもったある姉〉がが枯れています。
まず、この作品では、姉妹がそれぞれ嘘をついていますが、それらが異なる理由によってつかれたものであることに注目しなければなりません。
はじめに妹のほうですが、これは上記にあるように、妹の予想だにしない言葉がまさにそれにあたります。なんと彼女はあまりの寂しさのため、自身で理想の想い人を描き、その人物になりきって手紙を書いていたというのです。言わば、彼女は自身の欲求(物欲)の為に自分に嘘をついたのです。
一方の姉の方ですが、彼女は妹の為を思い、M.Tを装い妹に手紙を宛ています。言わばこれは他人の幸福を願う、信仰の心からきています。そしてこの信仰とは、自分の幸福には関係なく、常に他人に向いていなければなりません。
ですが、ここで大きな問題が起きてしまいます。それは姉が自身の嘘の手紙の中で、「僕は、あなたを愛しています。毎日、毎日、歌をつくってお送りします。それから、毎日、毎日、あなたのお庭の塀のそとで、口笛吹いて、お聞かせしましょう。あしたの晩の六時には、さっそく口笛、軍艦マアチ吹いてあげます。」と書いたのですが、これがなんとあたかもM.Tという人物が存在するかのように、晩六時に軍艦マアチが聴こえてくるのです。この軍艦マアチについて、信仰深い姉ははじめ、神様のご加護だと考えていました。ですがその後、実は父が口笛を吹いたのではないかと考えはじめます。これは信仰の目から見れば、前者の解釈の場合は問題はないのですが、後者は自身で理想の父の姿を求めていることになり、純粋な信仰ではなくなってしまいます。信仰とはあくまで、自分以外の他人のために存在しなければならないのです。
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