ある時、一匹の燕は葦と仲良くなり、仲間が帰ってもなかなか帰ろうとはしませんでした。やがて冬が間近になってくると、葦は燕に対して、「それはいけません、あなたはまだ霜というやつを見ないんですか。(中略)私は今年はこのままで黄色く枯れてしまいますけれども、来年あなたの来る時分にはまたわかくなってきれいになってあなたとお友だちになりましょう。あなたが今年死ぬと来年は私一人っきりでさびしゅうございますから」と別れを告げることにします。燕は葦の言葉に納得して、南を向いて心細い旅をすることになりました。
その後燕は旅の途中で、心優しく立派な王子の像と出会います。この王子は燕に対して、不幸な人々のために自分の体の金を剥ぎとって、それを彼らに持っていくように事あるごとに命じます。燕も王子の志に感じ入り、毎回彼に従います。ですが、他人のために自分の金を使っているため、王子の体は次第に見窄らしくなっていきます。一体彼は何故そこまでして、他人に尽くすのでしょうか。
この作品では、〈他人の喜びが自分の喜びであると考えている、王子の像〉が描かれています。
まず、王子の行動原理は「王子も燕もはるかにこれを見て、今日も一ついい事をしたと清い心をもって夜のねむりにつきました。」の一文からも理解できるように、他人の喜びこそが自分の喜びだと考えているところにあります。ですが、この王子の考えは自分の心を満たすために他人に尽くす、所謂自己満足的な考えとは一線を画しています。それは次の一文をみても分かるはずです。「泣くほど自分のものをおしんでそれを人にほどこしたとてなんの役にたつものぞ。心から喜んでほどこしをしてこそ神様のお心にもかなうのだ。」つまり彼は、自分の喜びが先にくるのではなく、他人の喜びが先でないといけないということをここで主張しています。そして私たちは、王子のあくまで他人の喜びのために行動し、そこに自分の喜びを見いだしている姿に感動を覚えることでしょう。
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