著者は辰野隆の「仏蘭西文学の話」という本の中のある文章に興味を惹かれています。それはある盲目の女性に兎の眼を移植したところ、なんと彼女は数日で目が見えるようになりました。ところが、その数日の間、彼女は猟夫を見ると逃げ出してしまうようになってしまったというのです。一体、彼女は何故逃げ出すようになったのでしょうか。
この作品では、〈対立物の相互浸透のある一面〉が描かれています。
まず著者の主張では、「兎の目は何も知らない。けれども、兎の目を保有していた彼女は、猟夫の職業の性質を知っていた。兎の目を宿さぬ以前から、猟夫の残虐
な 性質に就いては聞いて知っていたのである。(中略)彼女は、家兎の目を宿して、この光る世界を見ることができ、それ自身の兎の目をこよなく大事にしたい心から、かねて聞き及ぶ猟夫という兎の敵 を、憎しみ恐れ、ついには之をあらわに回避するほどになったのである。」というものでした。恐らく、著者はそこから、兎の目が人間の性格の一面をつくっている、と主張したいようです。事実彼はこの後に、その根拠を述べるべく、タンシチューを食べるようになった為に英語の発音が上手になった女性や、狐の襟巻きをきると突如狡猾な人格になる女性のエピソードを綴っています。
ですが、著者が法則の性質の一面しか捉えることが出来ていないため、その論証自体に大きな欠点が二点あります。その一点目は、互いに浸透し合っているものを上手く結べていない、または根本的に見誤っているということです。著者は兎の目を持った女が、猟夫を恐れるのは、兎の眼を大事にしていた為と説明していますが、果たしてそうでしょうか。そもそも女性は兎の目を移植されたために生まれてはじめて、世界を自分の目で見ることが出来るようになったのです。そんな彼女が突然、猟銃という凶器にもなりうるものを持った男を見たらどう思うでしょうか。更にそれが狩りの最中であれば、その目つきに恐れるもの無理のない話ではないでしょうか。こう考える方が、兎の目を持ったことによりそれを大事に思うようになったために、猟夫を恐れるようになったと考えるよりは説得力があるはずです。また、タンシチューの女性のエピソードでは、タンシチューを週二回食べることにより、体の細胞が変化し英語が喋れる様になったということも可笑しな話です。確かに西洋人の食べ物を食べることにより、肉体が西洋人になっていくことは多少はあるでしょうが(食べ物が人間をつくる)、それ以上に毎日英語を喋っているので、舌が英語の発音に慣れ、変化していったと考える方が自然というものです。
次に二点目ですが、これは、兎の目からという流れは説明されていますが、その逆が説明されていないことにあります。これは兎の例は上記にもあるように根本から違うため、狐の襟巻きの女性の話を取り上げ説明することにしましょう。確かに事実はどうであれ狐という言葉を聞いて私たちは、嘘をつく、狡猾な動物であるというイメージを持っています。そしてそういった動物の襟巻きを身につけることによって、彼女が自分のイメージをつくり上げ、そういった人物になっていくことは十分に考えられます。ですが、もとからそういう人物が狐の襟巻きを着ることによって、狐にそういったイメージが付きまとうことだってあるはずです。例えば、あるモデルが全くお洒落ではないドレスを見事に着こなしていれば、そのドレスも「成程、お洒落である」と感じ、そのドレスが流行することだってあります。よって、狐の襟巻きが女性をつくっていると同時に、その女性もまた狐のイメージを作り上げているのです。
以上が、著者が見落としていた法則の一部始終となります。法則というものは何と何がくっついているのかが重要なのではなく、どのような流れでどう繋がっているのかが重要なのです。
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