2011年3月12日土曜日

東京だよりー太宰治

著者は、先日知り合いの画家に自身の小説集の表紙の画を描いてもらう為、画家が働く工場を何度か訪れていました。そして、ある時著者は事務所に入り、そこの女の子の一人に来意を告げ、彼の宿直の部屋に電話をかけてもらっている時、密かに事務所の女の子を観察していました。彼曰く、女の子たちの様子はひとりひとり違った心の表情も認められず、一様にうつむいてせっせと事務を執っているだけで、来客の出入にもその静かな雰囲気は何の変化も示さず、ただ算盤の音と帳簿を繰る音が爽やかに聞こえて、たいへん気持のいい眺めだったそうです。しかし、その中で著者がどうしても忘れられない印象の女の子が一人いました。彼女は外見や表情は他の女の子と全く変わらなかったといいます。一体彼は彼女の何に惹きつけられているのでしょうか。
この作品では、〈あるハンデを持ちながらも、それを周囲に感じさせることなく生活しているある少女〉が描かれています。
彼女は生まれながらにして足が悪かったのです。そして、その足の悪い彼女が普通に生活をしている。著者は彼女のそういったところに目を惹かれているのです。では、足の悪い女性が普通に生活しているのと、私たちのそれとではどれぐらいの開きがあるのでしょうか。
レベルをかなり下げた説明ですが、例として小学校で習う九九を用いることにしましょう。この九九をすんなりと暗記できる生徒と出来ない生徒がいます。この出来ない生徒の中には、九九が何をやっているのかが分からず、それが躓きの原因になってしまっている人たちもいることでしょう。ですから彼らの場合、掛け算が足し算の延長上にあり、繋がっていることを教えてあげると理解できるはずです。そうすると彼らは、はじめに九九を暗記できた者達よりも一段高いレベル(九九は足し算の延長上にあり、繋がっているという意味において)で理解したことになります。すると、九九の構造を知った彼らは、どの場合で九九が有効であり、足し算が有効かをそのまま暗記した者達よりも的確に見分けることが出来るはずです。暗記した者達は、九九という謎の解き方は与えられているものの、それがどのような計算法かを教えられてはいないのですから。
では、物語の中の少女もこれに当てはめれば、どういったことになるのでしょうか。彼女は足が不自由というハンデから、私たちの動作を私たち以上の努力によって行う必要があります。この努力とは、実践という意味でもそうですが、何かが欠落している分、私たち以上に日常の動作を知り、それを自分の体に応用する必要があるのです。結果、彼女は私たちの生活の動作を私たち以上に知り、私たちと同じようにこなる必要があったのです。見た目は同じでも、この彼女の明らかな深みに著者は魅せられているのです。

0 件のコメント:

コメントを投稿