2017年1月27日金曜日

風ばかー豊島与志雄(修正版1)

   子供達は学校の先生から、人間はよく見ると左右で異なる形をしており、歩くときも目隠しをしていれば、大抵どちらかにずれてしまうという話を聞きます。しかし、その話をにわかには信じられない彼等は、野原へと向かい、その検証をはじめました。ですが、矢張りどちらかに偏り、まっすぐ歩けません。そんな中「マサちゃん」という男の子だけは、自分の歩く癖を把握し、歩く事ができたのです。そこで子供達はマサちゃんに教わりながら、偏らずに歩く練習をはじめました。
  やがて日も暮れて練習もそろそろ終わろうかという時に、マサちゃんはみんなに対してお手本を見せようとします。ところが先程とは違い、うまく歩く事ができません。彼曰く、風が邪魔をしているというのです。そしてマサちゃんの耳元では、風が「ばかー、ばかー……」と声を立てているような錯覚を感じはじめます。これには流石のマサちゃんも憤慨し、「ばかー」と怒鳴り返すのでした。
   家に帰ると、マサちゃんはお父さんに今日あった出来事を話しました。するとお父さんは、
「それは、お前の方がばかだよ。風にさからってもつまらない。風というものは、強くなったり弱くなったり、息をついて吹くから、その中をまっすぐに歩くのはむずかしいよ。」
   と言って笑いました。対するマサちゃんはこう返しました。
「風って息をするんですか」
「うむ、息をするよ。息をするというより、風は息なんだよ」
「なんの息?」
「なんの息って……。どういったらいいかなあ、空気の息、神様の息、いろんなものの息……ただ息だよ」
「ただ、息だけ?」
「息だけだよ」
「ばかな奴だな」
   このマサちゃんの発言を受けてお父さんは笑い出します。そしてマサちゃん自身も、自分のこの結論に納得するかのように笑ったのでした。

   この作品では、〈風という実体のない存在を、素直な子供心によって理解しようとするが故に、現実のものと遊離したもとして扱わなければならなくなっていった、失敗〉が描かれています。

    この物語の最後にある、お父さんとマサちゃんの笑い方には、表現は同じでも、そこに含まれている内容については大きな違いがあります。それでは、それがどのようなものなのか、二人の会話を振り返る中で見ていきましょう。
   マサちゃんの話を聞いたお父さんは、風というものは息と同じく自然にあるものだから、そうした自然に逆らうことの愚かしさをマサちゃんに伝えようとします。しかし、マサちゃんは風の正体が何であるのかが気になったらしく、会話は下記のように続きます。
「風って息をするんですか」
「うむ、息をするよ。息をするというより、風は息なんだよ」
「なんの息?」
   しかしこうしたマサちゃんの発言に対して、お父さんは言葉に窮してしまいます。何故ならば、この時点でマサちゃんは風というものが実体を持った存在であり、必ず何処かに潜んでいると考えているからに他なりません。対するお父さんは、風には実体がなく、自然が起こす何らかの現象が風である事は理解しています。ところがそうした常識的な観点はあるものの、それを説明するまでの知識を持ち合わせてはいません。そこでこの矛盾を解消すべく、「なんの息って……。どういったらいいかなあ、空気の息、神様の息、いろんなものの息……ただ息だよ」と、息というものとそれを発生させている実体とを切り離して、お父さんはマサちゃんに説明しようとします。
   しかし、次のやりとりに注目してください。
「ただ、息だけ?」
「息だけだよ」
「ばかな奴だな」
   どうやら風というものが、実体がないところまでは理解できたようですが、マサちゃんのこの理解の仕方では、「だけ」という言葉に気をとられ過ぎてしまうあまりに、息を吹かしている実体が完全に消失してしまい、息が現実のものとは独立した形で現れているのです。
   このマサちゃんの失敗をもう少し分かりやすくする為に、例を取り上げて見ていきましょう。例えば、癌という病気がありますが、これは常識的な見方をすれば、神様が人々の身体に癌なる異常な物質を私達に与えたものなどではく、日常生活での不衛生、或いは不規則な生活が、身体の細胞を癌化させているという事になります。また、数百年前までは、病気というものは悪魔の仕業や祟り等のせいにされてきましたが、現在の常識では、生活の問題として取り扱うようになりました。
   このように、一般的に病気と呼ばれているものは、非現実的なところからいきなり出現したものではなく、現実の在り方からあらわれた現象として扱うべきであり、物語のマサちゃんにしても、このような観点がないからこそ、風が、或いは息がパッと出てきたかのような理解にしか至らなかったのです。
   ですから、この二人の笑いの違いというものは、マサちゃんのそれは、自分たちとは違い、自由が利かない風をあざ笑っています。対するお父さんは、こうしたマサちゃんの子供心ながらにも風を理解しようとして失敗している、そのあどけなさを笑っているのです。

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