2016年2月9日火曜日

聖女人像ー豊島与志雄(修正版1)

 自身のアタマの中に引き篭りがちである「私」は、しばしば、昼となく夜となく下記のような夢を見ています。

――海岸の深い淵のなか、水面から僅かにのぞき出てる、苔むした滑らかな巌の上に、誰かがじっとしがみついている。――幾抱えもある巨木の根本に、何を 為すでもなく、何を見るでもなく、永遠の彫刻のように、誰かが静かに佇んでいる――。荒野の中を、誰かが歩いている。片方は底知れぬ深い断崖である。もし 覗きこめば、視線と共に体まで底へ引きずりこまされそうだ。危い。ただ歩いている。――誰かが呪文のようなことを唱える……大凶と大吉との交叉する一刻 だ。悪魔になりたいか、神になりたいか。息をひそめよ、息をひそめよ。

 一方現実では、具体的な症状がないにも拘らず、自分自身を「病気」だと診断しています。そして職場の同僚であり肉体関係を持っていると思われる「久子」や「ばあや」が、献身的に彼を看病しているにも拘らず、自堕落な日々を過ごしているのです。
 そんな彼にも身の周りの女性、特に「久子」に関しては、多少の不満があるようでした。キスをする時には眼鏡を外さない無頓着さ、結婚を要求して上記のような彼の孤独の空想を邪魔しようとするところ等が、彼には不愉快なのです。ですが無論、「久子」のすべてが嫌いかと言えばそうではありません。彼女が和服が似合うところや他者を想い合えるところについては、一定の評価を下しています。が、彼にはそうした長所と短所を兼ね備えた「久子」を同一の人物として見ることが出来なのだと云います。

 そんな中、彼のアタマの中にふと、「然し、これがもし「清子」だったならば、そのようなものは全然不要だったろう。」という思いが浮上してきはじめました。「清子」とは「淵の中の巌が見え、古い大木が見え、崖ふちの道が見え」るところから登場した、和服姿の女性です。そして彼女はしばしば、「私」の夢と現実の間からひょっこりと顔を出して、「久子」には甘えられないが、もし「清子」ならば甘えただろう。一般的な女性は結婚で男の自立性を失わせるが、「清子」ならばそのような心配はない、といった具合に世の女性の欠点を埋めていきます。

 ところがそんな彼女が突如として消えなければいけない事件が起こりました。きっかけは、「私」が「ばあや」に赤い色気のある箱枕を買ってくれたところからはじまります。彼はその箱枕に寝転びながら外にある百日紅を眺めていると、「清子」を想い起こし、箱枕に寝かせてみたならば、という妄想に耽っていきました。
 そこに彼の友人たる「尾形」と「久子」が見舞いにやってきました。そこで「久子」は例の箱枕を発見し、「私」に他の女性の影があるのではと邪推し、彼の傍に投げ出したのです。「清子」を汚されたと感じた彼は憤慨し、
「もう帰ってくれ。君たち帰ってくれ。僕は一人でいたいんだ。この大事な箱枕をして、彼女のことを考えていたいんだ。一人きりでいたいんだ。何をぐずぐずしてるんだ。帰れよ。僕はもう一切口を利かないぞ。黙って一人でいたいんだ。」
 と言って二人を追い出しました。ところが肝心の彼女は、彼らが去ると共に、アタマの中から消えてしまったのです。一体何故彼女は消えてしまったのでしょうか。

 この作品では、〈自身のアタマの中に引き篭もりがちな男が、現実の女性と関わっていく中で聖女をつくりあげる事で、より引きこもらなければならなくなっていった様子〉が描かれています。

 上記の問題を解き明かす為に、もう一度、「清子」が「私」にとってどのような存在であり、またどのようにつくりあげられていったのかを見ていきましょう。

 もともと現実よりもアタマの中で暮らしていく事が好きな「私」は、一定の長い期間、「久子」を観察する中で、自分の中に「好きな久子」と「不満のある久子」が存在している事を自覚していきます。そうして自覚していくうちに彼にとってそれらは、同一の人物として見ることが出来なくなっていきます。彼はこのようにして、現実に存在する「久子」を好きな部分とそうでない部分に切り分けて考えていきました。そして恐らく、「久子」ばかりではなく、彼は身の回りのあらゆる女性をこうして二つに分けて、アタマの中に完璧な女性、つまり「聖女」の像をつくり上げていったのです。
 余談ですがこのように述べると、「私」という人物は、現代で言うところの所謂「オタク」に似た存在だと読者は思われる事でしょう。確かに自分のアタマの中で理想の女性像を育むといった点に置いた点では共通しています。しかし、オタクの場合は現実の女性ではなく、あくまでもアニメーションや漫画のそれといった、誰かがつくった創作物を参考にしています。ですから、その分現実の女性とはかけ離れた「聖女」をつくりあげてしまうのです。一方の「私」はあくまで現実の女性を参考にしているので、精度としてはこちらの方が、より現実に近い女性なのだと言うことが出来るでしょう。

 そして、彼女は、どんどんと彼の中にある、主に現実の女性への不満を栄養として育っていきます。そして遂には、箱枕という道具を用いる事で、「私」のアタマから離れて、彼と共に寝転がるまでの存在になっていきました。

 ところが彼女の誕生と発展の中にこそ、彼女の死が存在しています。それは「久子」が箱枕を投げる場面を整理すれば理解できるはずです。
 箱枕を鍋られた「私」は、友人である「尾形」と「清子」の主なモデルであった「久子」を怒鳴って追い出します。すると、モデルを失った、不完全な「清子」はどうなるのでしょうか。

 ここで話をすすめる前に私が何故彼女を不完全と彼女を評したのかについて、説明を加えておきたいと思います。それは「清子」が彼のアタマの中でまだまだ曖昧な存在であったからに他なりません。
 例えば私たちは、自分の尊敬する指導者や俳優を思い描く時とはどのような時でしょうか。きっと直接指導されている内容を一人で実践している時や、スクリーンと似たようなシチュエーションを直接見た時、若しくはアタマの中で設定した時など、かなり限定的な空間において思い浮かべる事でしょう。しかし、一歩私生活や恋人や家族と過ごしている彼ら、或いは未来の彼らを思い浮かべてみろと言われたのならばどうでしょうか。このように他人の像というものは、一般的には一定の範囲名では鮮やかに描くことが出来ますが、その像が弱い時に違ったシチュエーションで彼らを想起しようとしてもなかなか出来なのです。

 ですから、そうしたモデルという手がかりを失った「清子」という存在は、それなしには生きられず、彼のアタマの中から消えなければならなかったのです。しかし完全に消えたのかと言えばそうではありません。下記は、「尾形」や「久子」が去った後の場面を描いています。

――私は眼を開く。そこには誰もいない。尾形も久子も帰っていったらしい。婆やもいない。ただ私一人だ。もう清子もいない。清子は果して実在の人間だろうか。そうだ、私にとっては架空のものではない。――

 つまり「私」はアタマの中の「清子」という存在を現実の女性と同列に並べることによって、更にその像を膨らませようとしているのです。尚、この一文というものは、読者たる私たちに、同時に今後の彼の未来が不吉なものだと暗示させていることも見逃してはならないものであると言って良いでしょう。

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